カムイモシリ

カムイモシリ 第一回

和田山 明彦 作(釧路管内標茶町在住)

 低気圧がサハリンを通過する。このような日は、南からの温かい空気が運び込まれ、日差しは冬の佇まいが始まった時期にしては、身を十分に温めてくれる恵みを感じさせる。

 朝早く山仕事に出掛け、マイナスの気温の中、作業を始めた時に着ていた防寒の作業衣は、日が高くなるにしたがい、既に脱ぎ捨てられていた。

 定刻の昼休みにしようと、赤嶺健は日が当たる平坦な場所を確保し、昼食を用意しはじめた。ポットに入っているのは、温かなお茶。食事は塩おむすびと決めている。中の具は梅干し。山の中では芳醇な香りは禁物だ。梅干しが一番良い。

 北海道釧路市の北に広がる釧路湿原を見下ろすなだらかな山並みの奥で、赤嶺は造林の作業に勤しんでいた。

 日が短くなる初冬には、早めの帰宅を強いられる。しかし、今日のような小春日和の温もりに、長めの昼休みの誘惑に逆らうことができそうもない。この時期になると、虫達に一服を邪魔される恐れもない。いつしか眠りに誘われていく。

 赤嶺は微睡(まどろみ)の夢の中に居た。日差しは花園に横たわる頬に降り注ぐ初夏の日差しを思い起こさせる。

 赤嶺は、目を閉じても、辺りの気配を窺う意識は健在のつもりだ。花の香りではない。枯草の甘い香りだ。今は、秋も暮れ初冬の時期。先日は、初雪を経験したではないか? 一人で苦笑いしながら、次第に時間の狭間に陥っていった。

 ふと眠気を追い払い、青い空に浮かぶ白い雲を見つめた。一瞬、自分の行動と居場所を見失う感覚に見舞われた。赤嶺は熟睡していたのだ。日は進路を進め、傾きかけていたが、相変わらず優しい風が頬をかすめる。我に返り、時計を見ると、時間がかなり過ぎていることに気が付いた。清々しい気持ちに支配されながらも、山の中で、不用心に意識を飛ばすことに反省もしなければならない。

 赤嶺は今日の仕事は潮時だと感じた。ほどなく日が沈み始める。冬至に向かうこの時期、北国の太陽は地平線からほど近い空間を渡り歩く。道具類を片付け、人間の痕跡を消して、林道に向かい歩き始めることにした。

 担当する山は釧路川に面する小高い山を越えた所だ。林道はその釧路川沿いにある。荷物を背負いながら、自ら定めた道筋で林道に向かった。道無き山林でも、安全を確認したところ以外、むやみに歩き回るようなことはしない。

 ここは、キムンカムイ(ヒグマ)の聖地だ。犬より何倍も敏感な嗅覚を持つヒグマにとって、赤嶺の存在などは、すでに既成事実となっているはずだ。日頃の行動を外して、相手に警戒されては元も子もない。いつものルートを辿り、林道に向かった。

 林道には赤嶺の軽トラが止まっている。一日中、黙って主人を待ち続けてくれたような愛おしさを感じ、赤嶺は、そっと手を添えてから、キーを取り出した。

 赤嶺は自宅に向かい車を走らせた。右手には、湿原に沈む夕日が眩しい。遠い阿寒の山並みを影絵とし、西の空を茜色に染めながら沈みかけていた。

 軽トラは国道391号線を南下し、塘路湖に差し掛かった。塘路湖の交差点を左折して、道道221号線を進み、湖畔沿いの道道に隣接する我が家の敷地に入った。そして、敷地の一番奥に鎮座するログハウスの前に停車した。

 赤嶺の自宅は、標茶町塘路の市街地からほど近い塘路湖畔に建てたログハウスだ。家族の温もりはここにはない。二十年ほど前に東京から移り住んだ時は、確かに妻と娘二人が居た。しかし、三人は、定住することもなく東京に住み続け、今はその絆も消えていた。

 赤嶺は十年ほど前に離婚していた。当然、原因は自分にあることを自覚していたが、今の生活は、赤嶺にとって心休まる毎日であることも確かだ。妻達も今では新しい生活に幸せを得ることができている。後悔はない。

 左右は牧草地、裏手にはミズナラの林が広がっている。夕暮れが過ぎても、なごりの明るさが未練たらしく残っているのか? 地平線近くに浮かび始めた月の灯りのせいか? この時間になっても、くっきりとログハウスの重厚なログを見極めることができた。

 塘路に住みつく前は現実逃避が習慣となり、いつも、辛いことの原因を自分以外のところに求めていた。しかし、そう簡単に安易な原因など見つけだせるはずがない。かと言って、周りに当たり散らかし、ストレスを発散するほどの気の強さも持ち合わせていない。辛い思いに駆られると、ただ、その場を回避するために、他に拠り所を漁り求める。なんとも情けない性格だった。

 この地に移住する決意も、現実逃避からの拠り所を求めた結果であったことは否めない。しかし、この塘路の自然に育まれる生活は、明らかに赤嶺の人生観に変革をもたらしていた。何事もすべて素直に受け入れることができ、毎日が清々しい。心安らかに日々を送ることができるようになっていた。

 山の中では、偽りの人格を構築する必要がない。素の姿こそ唯一通じる世界だ。それまで感ずることの無かった育まれるという感覚が心地良かった。

 山の仕事の特典は、山菜やキノコなど、一人で生きるには十分な食材を手に入ることができることだ。猟師として猟銃の資格も取り、シーズンに入ると、鹿撃ちに出掛けるのも生活の手段としていた。二頭ほど仕留めれば、一年分のタンパク質にありつける。

 東京に居たときには考えも及ばない生活が、今の赤嶺の日常だ。現実を直視し、素直に受け入れ、飾る必要のない日々が赤嶺の日常だった。

 翌日の朝、目覚めると雨だった。前日の天気予報で、寒冷前線が釧路を横切ることを知っていた。明け方に降り始める雨は、終日降り続けるということを承知していた。山の仕事は昨夜の内から諦めていた。今日は、釧路市内の会社に出向くことにする。

 赤嶺は正社員ではない。定年を迎えてから、会社と契約をする職人として、ある意味、自由な立場を謳歌していた。そのため、会社に出向く月一回ほどの機会が、人間社会と交わる貴重な時間となっていた。

 冬間近の冷たい雨の中、会社に着くと、事務の古関敏子が入り口で衣服に着いた雨を払っている赤嶺に微笑みながら迎えてくれた。
「おはようございます。相変わらず傘はお持ちではないんですね。赤嶺さんが傘をさしている姿を見たことがない」

 今は、会社以外で会話をすることがほとんどない。いつものことだが、慣れるまでしばらく会話のコツがつかめない。苦笑いをしながら軽い会釈だけで済ませた。敏子は赤嶺に言った。
「部長は席を外しています。雨が降って、時期的にも赤嶺さんが来る頃だから、来たら一服して待ってもらって、ということで・・・」立ち上がり、休憩用の長椅子に案内しながら続けた。「はいっ、こちらでどうぞ。今、お茶を用意しますから・・・」

 敏子は高校生の娘を持つシングルマザーだ。十五年前、赤嶺が四十七才でこの会社に移って来た時、既にシングルマザーとして幼子を育てていた。

 赤嶺がどのような経緯でこの地に来たのか、赤嶺の素性を敏子は知らない。しかし、どこか垢抜けた雰囲気を醸し出す赤嶺に次第に引き付けられていた。

 赤嶺が社会性に疎い習慣に染まっているところも、敏子の目から見ると、今までに出会った人には見受けられない、新鮮で温かみのあるニヒルさと理解していた。今までの付き合いで、赤嶺が持つ知的な優しさの本性は見抜いていた。しかし、当然、敏子は赤嶺の私生活を知る由もなかった。それが、もどかしかった。

 赤嶺は、一方的に話しかける敏子に、にこやかに笑顔で対応するだけだ。元来、人嫌いではない。この年齢になると、人の温もりを有難いとさえ感じるようになっていた。

 赤嶺も、年齢にそぐわない美しさを保つ敏子の飾らない姿を気に掛けていた。しかし、赤嶺は社会的遅効症なのだ。そんな病名などあるはずがない。しかし、そう理解すれば、すべてが丸く収まる。

 部長の柴田則夫が戻ってきた。赤嶺の姿を見て言った。
「やはり来ましたね。そろそろ来る頃と思っていました。ちょっと来てください」柴田は、自分の机に赤嶺を呼び寄せた。いつもの成り行きだ。「今の山は、いつまでかかりそうですか?」

 赤嶺が答えた。
「あと二~三日で終わります」

 今日、会社に来て初めてまともな声を発した。敏子はチラリと赤嶺を見た。

 柴田は、図面を広げ話し始めた。
「そうか、さすが仕事が早いな。実は、続けて塘路湖畔北側の山にも行ってほしいんだが・・・。赤嶺さんの地元だが・・・」どこか躊躇している。その理由は次の言葉ではっきりした。「三年前、その山の谷間で作業員がヒグマに襲われて亡くなっているだろう? 赤嶺さんは一人作業を常としているから、どうなのかなと考えているんだが・・・。かといって、誰も行きたがらない。どんなもんかな?」

 その話を聞いていた敏子が割って入った。
「そんな危険な所に一人で行かせるなんて・・・」

 柴田は気まずくなり項垂(うなだ)れた。
「済まない。あの事故以来、誰も入り込もうとしない。去年も、事情を知らない山菜取りの人が襲われただろう? 怪我で済んだが・・・。森林組合からは、山が荒れてきたと矢の催促だ。参ったよ」

 赤嶺は、必死の顔を見せる敏子を笑顔で宥(なだ)めてから柴田に言った。
「私は狩猟の免許を持っています。もう猟期に入りましたので、銃の手入れも済んでいます。いつものように、鹿を撃とうと思いまして・・・。ということは、駆除にも駆り出されて・・・」

 敏子は、赤嶺が仕事を引き受けるような雰囲気で話し始めたことに驚き、話に割って入ってきた。
「組合もそのような山なら、人出を出して自分達でやればいいのよ」

 柴田は困り果てた。
「もう、大分前に契約は済んでるし・・・。事情が事情だから、ずっと待ってくれていたんだ。いまさら、契約破棄はできないよ・・・」

 大柄な体を小さくさせた。

 赤嶺は、敏子を宥(なだ)める仕草をし、敏子にも聞いてもらうように話を続けることにした。
「話を続けていいですか?」笑顔で敏子と柴田を見渡した。「私は、ヒグマの性格を熟知してます。猟友会のいろいろな人達から教授されています。あの山に住みついているのはメスです。三年前の事故は、穴から出てきたヒグマに突然襲われていましたね。穴には、子熊が居た。親熊は駆除できなかったので、今もそのメス熊が居座っているはずです。去年の事故も同じヒグマでしょう」少し間を空けた。「カノジョは自分の身を守っているだけなんです。危害を加えられないと理解してくれたら襲ってきません」

 敏子は呆れた。ヒグマをカノジョと言っている。そして、不思議に感じた。
「どうして、分かるんですか? まるで、カノジョから聞いたみたい」

 赤嶺は苦笑いをしてから姿勢を正して言った。「メスは、家族を育てるためにテリトリーを作ります。オスは、放浪します。春になると、生息地以外で目撃されるのは、ほとんどがオスや親離れした若熊です。ですから、ヒグマを見かけたという通報で私達が駆除に駆けつけても、大体はその場を離れた後です。ですから、怖いのはメスです。テリトリーは自身の生存や子供を育てるために大事な聖地なのです。人間や他のヒグマが近付くと警戒します。ですから、私達の方で気を付けてやれば安心します」

 敏子はまだ納得しない。
「でも、その山に住むヒグマは、人間の味を知ったんでしょ? 近寄ってきません?」

 赤嶺は、考え込んでから、説明するように言った。
「かなり昔のことですが、山が不作の時、空腹で冬眠し損なったヒグマが、飢えで妊婦を襲ったという話があります。でもその話以外で、食するために人間を襲ったという話は聞いたことがない。やはり、身を守るためというのが理由です。ヒグマも人間が恐ろしい。だから、必死で襲うのです」

 柴田は、赤嶺の言葉に慌てて結論を出した。敏子の言葉に心変わりされては元も子もない。
「分かった。それでは、あの山は任せた! 期限はできるだけ伸ばすよう交渉する。賃金も上乗せするから、無理せずに頼むよ」

 肩の荷が下りたのだろう。急に明るくなった。
「それはそうと、今日は逃がさないぞ。雨の中帰っても仕方がないだろう? 昼飯を付き合え。いいだろう?」
「しかし・・・」

 渋る赤嶺に間を与えず言った。
「実は相談があるんだ。今も、社長とその話をしてきたところで・・・。もう一つの方の仕事だ。フリーでやってると言っていたから、直接頼んでもいいだろう?」

 敏子は面食らった。フリーの仕事? 別の仕事? 聞いたことがなかった。普段から不思議な雰囲気を感じていたことに関係しているのだろうか? 耳を研ぎ澄ました。

続く(次回更新:9月8日火曜日)

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