カムイモシリ
カムイモシリ 第六回
和田山 明彦 作(釧路管内標茶町在住)
一九七二年。
高校では、進学校という性質上、文科系の部活動は、二年生時の活動終了と共に自粛となる。進学を目指す生徒は、部活動を止め、勉学に励むことになるが、赤嶺も、進学が目標だった。ただ、漠然と・・・。
就職組のすべての友人は、前向きな目標に根差した決断をしていた。赤嶺は、自分には持ち得ない彼等の将来への展望を、嫉妬を持って受け止めていた。自分には、将来を語るには、大学の四年間という時間が必要だという奇妙な言い訳を本気になって考えていた。
赤嶺は途方に暮れた。先に広がるはずの希望の道が闇に包まれているようだ。興味のある世界が無いことは無い。しかし、勇気と決断が伴わない。運命の狭間に陥ったように日々を彷徨(さまよ)った。
時間は容赦なく過ぎて行く。不安が前に立ちはだかり、進路の悩みに結論を得るまで、気持ちの安定を維持することさえも難しい。
安易な道を探す方法に、逃げ道を見出す癖を取ってしまう。人並みの頑張りは経験してきた自負はある。成績も一流とされる大学へ進むに足るレベルは維持してきた。それも努力だろうと自らに問いかけていたのだが・・・。
赤嶺は就職組の羨望の的である公務員に挑戦とも考えた。しかし、中学、高校と個性を磨くことに精を出していた。人より異質な感性を醸し出すことに価値を見出してきた。それが友人達の中で優位を保つ証でもあった。その意地が人並みの世界に入り込むことを邪魔していた。
ある日、書店の棚にコンピューターという文字が目に入った。情報処理をテーマとした雑誌だ。
アメリカのNASAに、世の男の子達が興味を持っていたように、赤嶺も、月面着陸の映像に夢中になり、宇宙に夢を広げ、夢想する時期があった。管制室の、整然と並ぶモニターに向かう人達に、漠然と憧れを持った記憶が蘇った。その状況写真が、その雑誌に小さく載せられていた。赤嶺は、ロケットのパイロットではなく、管制室の情景に興味を引かれていた。
その書店には、大学の情報を求めに来ていたのだが、目標を絞ることが瞬時にできた。情報処理を専攻できる大学を探した。しかし、当時、総合大学にはコンピューターによる情報処理を専攻できる学部を設置している所はない。かろうじて、東京にある無名に近かった大学で、コンピューターを扱えそうなところを見つけた。そこなら、楽に入学できそうだ。しかも、世の人がまだ注目していないNASAの管制室に通じる学問だ。その点、優越感も満足できる。大学の名前は説明が必要なほど無名に近かったが、友人達には、自慢気に話せる部門だ。それが一番大事だった。
その学校には試験らしき試験は無い。理系の試験はあるのだが、一流大学を目指していた赤嶺にとっては、単なる儀式みたいなものだった。
初めての都会生活を満喫した。ただ、あまりにも多い人の数に、高校まで気に掛けていた、自分の立ち位置を意識する気にもならなかった。少々目立つことをしても、ここでは、単なる小さな個性で終ってしまう。意味が無い。
赤嶺は、むしろ気が楽になった。どのような状況に置かれても、誰も目に掛けてくれない。良きにつけ悪しにつけ、都会では、個人の存在は過程の段階では無だ。結果のみしか意味をなさない。
周りに大勢の人間が蠢(うごめ)いているが、それぞれの人達に人格を意識することはない。しかし、それは容易に孤独と結び付く。
赤嶺は、人混みの中で、初めて孤独の意味を知らされた。高校の同級生も数名同じように東京の大学に進学しているはずだ。しかし、連絡の取りようがない。高校時代の、ある意味、独り善がりの性格が友人達とのコミュニケーションの手段を構築する機会を妨げていた。
回りの世界に、いつも自分の個性を意識させ、優越感を求め続けてきた赤嶺は、必然的に、孤独が支配する都会に放り込まれるとともに、プレッシャーを感じることのない気軽さも同時に味わっていた。しかし、五月になり、連休が過ぎると、孤独の気軽さより生活の寂しさが際立って来た。一日中、声を発しない日が続くと、さすがに人恋しくなる。
遅ればせながら、サークルに入ることにした。赤嶺はそこでも悩んだ。音楽関係のサークルは高校時代のトラウマがある。かと言って、無関係で見ず知らずの世界にゼロから飛び込む勇気はない。多少の知識がある音響を扱うサークルに入ることにした。いわゆる校内放送から、舞台音響まで扱う公式の部だ。
アナウンサーに憧れる女性も大勢いたし、赤嶺が得意とする、音響設備の活動も忙しかった。それは、孤独の束縛から解放される結果となり、心にゆとりのない半人前の赤嶺には、気軽に時間の流れに身をゆだねる世界として、支障なく過ごせる空間だった。
赤嶺は、親の意見を無視して東京の学校に進んだ。当時は、情報処理という分野は得体の知れない世界だったのだが、赤嶺自身も、その学問がどのように将来につながるか定かではなかった。学校紹介書の、たった一枚の小さな写真が、NASAの管制室に似ているというだけで選んだのだから仕方がない。自分の選択の正当性を主張するかの如く、親には講釈を駆使して無理やり納得させた。そのため、生活費は半分アルバイトで稼ぐことにしたのだが、昔からの変な見栄を張り、卒業まで、頑なにその姿勢を貫いていた。
最初の頃は、田舎時代の虫が走り、派手な世界に入り込もうとして芸能関係の会社に潜り込んだり、楽譜を読める能力を利用して、プロのバンドの臨時メンバーになったり、周りの友人が羨む世界を覗き込むことに夢中になった。
しかし、二年過ぎ、住みついた街の中に居場所ができた頃から、自分の生き方に向かい合うようになってきた。大人に近付いてきたということか? 無理な生活リズムが学校の単位取得にも支障をきたしてきたという理由もある。学校で親しくなった友人達が、将来の夢を実現するため、就職を意識してきたということもある。
アパートの所在地である調布市柴崎にアルバイトを見つけ、落ち着いた生活を送ることにした。当時は、もちろん携帯があるわけがない。固定電話を持つ者はブルジョアの子供しか居ない。赤嶺は、他の学生と同じように、行きつけの喫茶店の電話を借りて、コレクトコールで故郷との通信を維持していた。
あまり有意義とは言えない学生生活という自覚はあったが、コンピュータープログラムの授業だけは夢中になることができた。画面と向き合う時間は、対人関係に気を遣う必要もない。ある意味、消極的な理由で専攻科目の単位を落とすことはなかった。むしろ、教授からは、性格が向いていると目を掛けてもらえるようにもなっていた。
惰性で学生生活を過ごすようになった赤嶺は、ガールフレンドにも無縁だった。高校までは、個性を光らせることに夢中だった赤嶺は、年に数度ラブレターらしき手紙をもらうこともあったが、その時は、初恋の典子への思いが障害となり、恋愛へと成熟することは無かった。
大学に入ると、都会の中で人に揉まれる感覚から、自分のコンプレックスとの葛藤で、落ち着いて女性と語る機会を得る余裕が生まれなかった。
キャンパス内に気を引く女性は居た。声もかけた。プロのバンドに属していた時は、キャンパスにギターを持参しなければならなかったので、その話題できっかけをつかもうともしたが、如何せん赤嶺本人の情熱が伴わない。
特異な立場に優越感を持つという自信の裏付けが乏しい赤嶺は、退屈しのぎに女性と付き合うのか?と自問自答する自分と向き合うことになる。情熱を最初の段階で削がれることになり、必然的に恋愛につながることはなかった。
ただ、四年という歳月が流れて行くだけだった。若く、熱気があふれる年齢であるはずだったが、時と人の流れに身を任せ、人混みの蠢(うごめ)きの中で、自分の存在が希薄になる寂しさを感じるだけだった。
当時は、オイルショックに見舞われた後遺症が色濃く残り、就職に四苦八苦させられる時代だった。しかし、赤嶺は、教授の受けが良かった。コンピュータープログラミングの技師は、その資格だけでも売り手市場の分野であり、教授の推薦をもらえば、他の学友のように血眼になって会社巡りをする必要も無い。余計に、時間を漫然と過ごすだけだった。
学校を卒業した赤嶺は、教授の声かけで大手建設メーカーに就職し、最先端のコンピューターを扱えるという理由だけで、有頂天の通勤をすることになった。コンピューターはまだ、世に広く知られていない万能の人工頭脳だ。その技師として、請われて入社した。
石油危機の影響が残り、その後のプラザ合意による不景気。企業は、経営戦略の転換を迫られた時代だった。
しかし、当の本人である赤嶺にとっては、まだ、注目される前の新しい分野でもあり、何気に滑り込んだというのが正しい感覚だ。実力というより、運が道を切り開いたという感覚だった。
続く(次回更新:10月13日火曜日)
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