カムイモシリ

カムイモシリ 第九回

和田山 明彦 作(釧路管内標茶町在住)

 予報通り晴天が一週間続いた。北斜面には雪もわずかに残っていたが、思ったより作業が進んだ。赤嶺は、朝と寝る前に必ず天気予報を確認する。それも、ウェブサイトで数社の予報を合わせてみる。
何とか仕事が続けられるのは今日までだろう。明日は、低気圧が南を通る。上空には、強い寒気が入ってくる。十二月が近付くと、大雪も考えられる。降り始めは雨だろう。確かに、天気図は、明日の夕方から北風に寒気が引き寄せられ、雪に変わる状況を示していた。

 赤嶺は、休日を取ることなく山に入っていた。一日休み、鹿を追ってみようと思っていたが、先日の多摩ナンバーの車を思い出し、躊躇せざるを得ない。しかし、雪が積もった後は狙い目だ。白い世界に鹿の姿が浮かび上がる。ソリを使えば運び出しも楽になる。久しぶりにシカ肉の味を思い出すと、胸が騒ぎ始めた。

 赤嶺は、余計な想いを振り払い、気持ちを切り替えた。今日は明日からの天候を考え、仕事の区切りを付けなければならない。出来るだけ向こう側の斜面を下ることにした。その斜面のカラマツ以外を終えるつもりだ。

 山に入る前、いつものように、チェーンソーの準備をした。この現場では、まずエンジンを掛けて、暖機運転をしてから入ることを常とした。もちろん、カノジョへの挨拶だ。自分の匂いと、この音で、自分の入山を認識してくれる。

 今日は無風と言っていい。独特の地面から立ち昇る山の匂いを感じた。多くの生き物の混ざり合った匂いを感じる時が、赤嶺の好きな瞬間の一つだ。

 季節によって匂いは違う。天候によっても違う。雪の降る前の、冷え冷えとした空気に漂う落葉の朽ちていく匂いと混ざり、獣たちの微かな残り香を感じた。自分が彼等と同等の感触を得たと感じる瞬間が好きだった。若葉の香る春や夏は、生命の息吹の強さに圧倒され、自分が負けないよう力を出し切らなければならないという錯覚に陥ってしまう。

 やはりこの時期だ。しかも、無風でなければ感じられない。雪が降り積もると、別の世界が現れる。その対比も格別に心地いい。
 
 雪が積もると音が消える。匂いも消える。そして色も消える。墨絵の世界に、色を添え、香りをもたらすのは、カムイ達の息吹だ。

 モモンガの営みの気配が、積雪により静まり返った大地が生き続けていることを認識させる。オジロワシ、オオワシ、フクロウなどは、冬の静寂の中にも激しい生命の営みがあることを知らしめる。丹頂は、湿原の神だ。神々しくこの大地を輝かせてくれる。

 ヒグマは穴に籠り、鹿は少ない食料を求め彷徨(さまよ)う。キツネは雪の下に隠れた小動物を探す。冬は、一見、眠りの季節のようだが、実は、個々のカムイ達はすさまじい生命の営みにエネルギーを滾(たぎ)らせる。ヒグマなどは眠り続けているわけではない。メスは穴の中で出産し、子を育て、秋に蓄えた脂肪だけを頼りに春を待たねばならない。丹頂も餌を手に入れるため、テリトリーを一時解体する。カムイモシリの冬は、生命が燃え滾(たぎ)る季節なのだ。

 明日の夜には、そのような冬が来る。山の作業は、冬が本番だ。木の伐採は、視界が開けるし、運び出しも抵抗が少なくなり楽になる。下草の作業も無くなり、木の間伐に集中できる。

 まずはその前に・・・と、山に分け入った。現場に到着すると、またチェーンソーのエンジンを掛け、辺りを見渡した。反対側の斜面に、鹿の群れがチェーンソーのエンジン音に驚いて走り去ろうとしている姿を確認する。

 赤嶺は、鹿の群れを何気に見ていると、鹿達は急に進路を変えた。その先の尾根に黒い影が動いている。すぐにカノジョだと分かった。詳細を見るには離れすぎている。しかし、大きく太った体形は確認できる。この山で、たくさん栄養を取ることができたのは確かだ。カノジョは向いの斜面にいる赤嶺を確認したようだ。耳を動かし、鼻を高くして、人間の存在を確認する。

 赤嶺はカノジョの様子に満足した。あれだけ栄養を蓄えれば、出産を無事に迎えられる。乳もいっぱい出るだろう。何より、こちら側の対応を間違えなければ、飢えていない大人のヒグマは、常道に反した行動は取らない。様子をうかがいながら仕事を始めた。

 カノジョは静かに峰の陰に隠れて消えた。カノジョの姿を見るのは初めてだったことに気が付いた。しかし、ここの作業を始めて久しい。こちらが確認していなくとも、カノジョは赤嶺のことをいつも見ていただろう。ヒグマの感覚は想像を絶する鋭さを持つ。行動に不信感を抱かさなければ、このいい付き合いは続けられる。

 赤嶺は、この界隈のエカシ(長老)、安住から呼び出しを受けていた。仕事を終え、安住の家に向かった。安住からは用事が無ければ声が掛からない。何事かと訝(いぶか)しんで安住の家に入った。

 「こんばんは!」

 安住の妻の節子が迎えてくれた。

 「すみません、お疲れのところ・・・。主人は今お風呂に入っていますのでどうぞお上がりください」

 赤嶺はリビングに通された。食事の用意がされている。まずい時間にお邪魔したと後悔した。すると、節子は、機先を制して言った。

 「赤嶺さんの分も用意してますからね。帰るなんて言わないでください」

 いつもこうだ。早い時間に伺っても、何かと時間をつぶし、食事に誘おうとするのが常だった。赤嶺が恐縮してると、安住が風呂から出てきた。風呂上りはいつもパンツ一丁だ。節子は言った。

 「年寄りの醜い裸を見せるんじゃありませんよ。服を用意したと言ったじゃないですか」

 赤嶺は笑ってその場を繕った。安住は言った。

 「習慣とは恐ろしいもんだなぁ」節子から服を受け取った。「おうっ、ありがとう。腹減っただろう。食べるとするか?」

 赤嶺は、安住が奥さんに頭が上がらないことを知っていた。家事の手伝いも、他人が見てない時は率先して手伝っていることを知っていた。赤嶺は、聞いた。

 「話というのは何ですか? 急がないとは言っていましたが・・・」

 安住は答えた。

 「そう、急がない。だから飯が先だ」

 出された食事をほおばった。赤嶺も仕方がなく食事にした。安住の食卓は静かな時間のうちに済まされる。声に出していいのは、『頂きます』と『ご馳走様』の声だけだ。安住がお茶を手に話し始めた。

 「実はなぁ、警察から連絡が来た」

 安住は、猟友会の会長も務めているので、警察との連絡を取りまとめている。

 「マナーの悪いハンターが出没しているらしい。トラクターで堆肥撒きしてるのに発砲したり、私有地に無断で入ったり、みんながみんなではないだろうが、今年は苦情が多いと言っていた。情報が欲しいと言っていたが、何か心当たりはないかなぁ」

 先日の多摩ナンバーのピックアップトラックを思い出した。車種と、ナンバーを控えていたので教えた。トラックには、ウィンチが付けられ、小型のクレーンも付いていた。年齢も、還暦を過ぎた赤嶺と同年代だ。

 話を聞いた安住は顔をしかめてメモを取った。

 「分かった。警察に調べてもらい、警告を出してもらおう。しかし、マナーの悪い連中が増えたな。悲しくなるよ」

 赤嶺は、安住がまだ何か言いたげにしていることに気が付いた。

 「まだ何かあるんですか?」

 安住は、笑顔を見せた。したり顔でモゴモゴと話し始めた。何か悪い予感がする。

 「お前ん家(ち)の向こう側の庄司の正体を知ってるだろう? あいつがこの間来て話して言ったぞ。お前がうちに来た日だ。見慣れぬ車から、えらい別嬪さんが出てきたと・・・。内緒にしたいなら、気を付けなきゃな。あいつは詮索好きだろう? しかも、朝早く通ったら、まだ居たと。雪が積もっていたから、どうったらこうったら、やかましいったりゃぁありゃしない」

 敏子が来た日だ。やましいことをしたつもりはない。

 「会社の友人です」この年で恋人はないだろう。「プログラミングの資料を持ってきてくれました。雪の予報でしたし、遅くなったので泊まらせました」真実だ。話足りないことはあるが、そこはプライベートの範囲だ。「別に隠すことではないですよ」

 言い訳くさくなった。一言多かった。安住は節子と目を合わせてから言った。

 「離婚して、何年になる? もういいかなと思って、俺達も誰かいい人をと考えていた。しかし、心配はいらないな? 良い事だ。今度紹介してくれ」

 安住にはお見通しということだ。赤嶺は、苦笑いするしかなかった。

 家に戻った赤嶺は、風呂から上がると会社から依頼されたプログラミングを進めることにした。大枠は、昔製作したプログラムを参考に完成させていた。そこに、敏子が持って来た資料をもとに進める。明日は日曜日で、天候が崩れる。一日パソコンに向かえるが、資料が揃わない。しかし、やれるところまで進めることにした。

 翌日は、朝から冷たい雨になっていた。この時期になると、シベリアには常に寒気の塊が待機している。一旦、低気圧が大気をかき混ぜると、その後、寒気を引き込み、また雪になる。一日中籠ることにした。

 午前中、早速プログラミングに行き詰った。昨日は、今日の山仕事は中止になると踏んで、遅くまでモニターを見ていた。まず、デザインだ。慣れない人にも、分かりやすく、しかも、機能が損なわれてはいけない。機能を重視すれば、扱う側にも専門知識が必要になる。それなら、既製品を買って慣れた方がいい。これは、扱う人間に見てもらわなければならない。

 資料も足りない。新しく加わる会社と併せるには、まったく違う視点が必要になる。以前、自分が扱った経験がある会社のプログラムの中に、参考になる物はないかとファイリングされた過去の資料を見てみたが、帯に短し襷に長しで、役に立ちそうにない。

 今日は、日曜日だ。敏子に会いたくなった。しかし、敏子の娘は修学旅行から帰っている。日曜日に仕事という言い訳はないだろう。来れるはずがない。つまり、仕事が進まないということだ。どこか、敏子と会う言い訳を探している自分がいた。

 何もすることがない。若い時なら、こんな日は、遅くまで寝ているのだが、年を重ねると、残された時間が気になるのか?惰眠という習慣とは疎遠になる。仕事部屋に備えている鍵付きロッカーから散弾銃とライフルを取り出した。鹿撃ちの準備に、分解して磨き直すことにした。

 二十年前、この地に来た赤嶺は、安住の勧めで狩猟免許を取ることにした。初めは、狩猟というと、動物を殺害するという意味しか感じられなかった。しばらくは猟に出かけられなかった記憶がある。しかし、ある時、安住に聞かされた。釣りはできて猟はできないという意味が理解できないと。

 赤嶺にとって、釣りは幼い頃から日常の一コマだった。しかし、人間と同じ哺乳類が血を流す姿は殺戮(さつりく)の情景を連想させられる。

 ある時、安住と共に猟に出掛ける機会があった。安住の腕は確かだ。四十mほど離れたところまで、風を読み、トラの如く近寄って行く。一発で仕留めた。弾は頸椎を見事に貫通していた。胴体に当てるのは、鹿を苦しめ、肉の質を下げることになる。近寄る意味は、細い頸動脈や神経の束を狙うためだ。痙攣する鹿を見て、赤嶺は目を背けたくなった。しかし、安住は素早くナイフを取り出し、見る間にさばき始めた。さばきながら安住は言った。

 「この時が、一番カムイに近付いたと感じるよ。昔は狩りというと、生きるか死ぬかだ。対等の舞台で競い合った。狩ることができれば人間は生き残れる。できなければ、当然、鹿は生き抜き、人間は飢えで死ぬ。カムイモシリは人間を差別しない」

 赤嶺は、その言葉に衝撃を受けた。安住は、鹿を撃つことは、彼等と同等のステージに立つということだと言い切る。

 赤嶺に魂という概念は薄かったが、その時は、鹿を食し、皮をまとうことは、鹿の魂を受け継ぐ行為と理解するのが合理的だと感じた。

 今は、赤嶺は宗教的な意味合いを猟の中に持ち込まない。素直に安住の言わんとした意味を理解している。この自然の中に身を置くと、人間はヒグマや鹿達と対等の立場に置かれる。太古から身体的に貧弱だった人間は、身体能力の代わりに知恵を手に入れたにすぎない。ただ、長い月日が、知恵の蓄積をもたらした。知恵の備蓄は想像を絶する科学と技術をもたらした。その結果、人間には驕(おご)りが発生した。自然の摂理と向き合う権利を失ったのだ。

 赤嶺は、山仕事を通じて動植物と交わることと同じ意味合いで猟を続けていた。むしろ、鹿をさばいている時間が、一番自然の真理に近付いたように感じる。つまり、安住に教えられた真理だ。赤嶺は、カムイモシリに生きている実感を深めていた。肉と皮にさばかれた鹿は、所詮、自分と紙一重の存在なのだ。

 外で、車が止まる音がした。敏子が来たのではと心が騒いだ。喜び勇んで玄関に向かった。

 やはり敏子だ。連れがいる。娘さんだろう。敏子に似て、スマートで、美しい娘さんだ。

 見惚れていると、敏子が語り掛けた。

 「残りの書類です」

 赤嶺は受け取りながら、言った。娘の存在に気を使った。

 「ありがとうございます。これで、進められます。二~三日籠れば仕上がると思いますが、山仕事もありますので、一週間待ってください」

 二人とも何か言いたげだ。

 「どうしましたか? 他に何か・・・? とりあえず、お入りください。どうぞ」

 リビングに促した。しまったと思った。銃を出しっぱなしだ。

 「すみません。ちょうど整備してたもので・・・。散らかっていますが・・・」

 リビングの机の上に広げられたライフルの部品に、二人とも、見慣れぬものを見たように驚いていた。敏子が、思い出したように言った。

 「熊は大丈夫ですか?」

 赤嶺は、冷静に言った。

 「昨日会いました。私があそこのカノジョを見たのは、昨日が初めてですが、カノジョは私を認識しているようでした。警戒の素振りを見せなかったので・・・。ですから、大丈夫ですよ」

 安心感を強調するように、できるだけ優しい言葉遣いを心掛けた。しかし、娘さんは思い詰めたようにうつむいている。本題を聞くべきだ。

 「どうされましたか?」

 優しく聞いた。敏子は、意を決したように、話し始めた。

 「じつは、娘がストーカーに狙われているようで・・・。心配で相談に来ました」

 赤嶺は、戸惑った。確かに自分は身体が大きく、威圧感を与える自信はあるが・・・。暴力に対抗するのは苦手だ。

 「付け狙われていると?」

 「いえ、そう言うことではないんです。スマホなんです」

  娘の奈美が敏子の話を遮るように言った。敏子では要領を得ないと判断したようだ。

 「先週から、変なメールがたくさん入るようになったんです。まるで見張られているようで・・・」

 敏子が続けた。

 「着信拒否をしてもダメなんです。先日は娘の下着姿の写真まで送って来て・・・」

 そこまで聞いて、赤嶺は気が付いた。娘のスマホは遠隔操作されている。そして、内部がすべてコピーされている。落ち着いて対応する必要がある。

 「そのスマホはありますか?」

 奈美は、鞄からスマホを取り出した。

 「これです。電源は切っています」

 赤嶺は、スマホを受け取った。

 「間違いなくウィルスに感染しているはずです。遠隔操作されたのでしょう。何か、思い当たることはないですか?」

 奈美は考えた。自分に思い当たることは無い。しかし。

 「そういえば、京都に居た時、ちょうど手が離せなくて、友達にメールを確認してもらったことがあります。重要なお知らせとあり、添付ファイルが付いていたんですけれど何も書いていなくて、変なメールと話したことがあります」

 赤嶺は理解した。その時、添付ファイルを開けてしまったのだ。

 「分かりました。解析してみましょう。ちょっと待ってください」隣の部屋に向かいながら続けて言った。「ただ、対応は警察にお願いすべきですよ」

 分析は赤嶺にとって難しいことではない。ネットワークから外されたパソコンを使い、問題と思われるすべてを洗い出して一覧にした。台所からいい匂いがしてきた。いつの間にか、昼になろうとしていた。

 「いい匂いですね? 今、テーブルを片付けます」

 猟銃をそのままにしていた。本来は、ペナルティーものだ。敏子の顔を見て、舞い上がってしまった。

 食事は、卵料理と庄司からもらった手作りのソーセージ、サラダ、味噌汁、赤嶺が漬けていたキュウリの浅漬け・・・。食事中、敏子親子は、傍らに置いた解析結果が気になるようだ。しかし、赤嶺は食事のルールを安住の習慣に習っていた。しかし、二人に強要するつもりはない。ひと言、食事後にと、囁(ささや)くように言った。

 後片付けをする敏子は台所にいる。赤嶺は、そうっと娘の奈美に聞いた。

 「SNSに自分の写真やプライベートの事柄を入れていたね? どうやら、そこが出発点のようだったよ。相手は、どこで何をしていたか知っていた。今後、気を付けようね」

 敏子が来た。赤嶺は、改めて書面を見せた。

 「この日付に入ったメールにウィルスが入っていました。先ほど言っていたメールはコレですね?」

 奈美はうなずいた。敏子が家に来た日の翌日だ。修学旅行の間に感染したということだ。話を続けた。

 「データもコピーされたようです。ですから、スマホを買い替えても解決しません。友達やお母さんにも被害が広がる恐れがあります」間を空けた。これからが肝心なところだ。「とても深刻です。メール内容も見させていただきました。ストーカーというより明らかに脅迫です。写真は、遠隔操作で撮られた物でした。京都の宿で撮影されています。解析で分かりますよ。ただ、相手のIPアドレスまでは追跡できますが、個人を特定することまでは、私に権限がありません。やはり、警察に告発しましょう。これだけ証拠があれば、令状は可能です」

 敏子は戸惑っていた。

 「相手にしてくれるでしょうか?」

 「この解析書があります。そのスマホと合わせれば、立派な証拠になります。私も立ち会います」

 早速、釧路市の方面本部に向かった。赤嶺の軽トラは、敏子の運転に気遣い、ゆっくりと釧路市内を走った。赤嶺は、釧路方面本部の駐車場から何気に署内に向かい歩き始めた。敏子は、その姿に、大いに頼りがいを感じた。

 赤嶺は、受付に生活安全課の課長、佐々木に面会を申し出た。敏子は面食らった。最初から課長に告発の手続きを?・・・。

 唖然とする敏子をよそに、赤嶺は、受付の指示ですたすたと歩き始めた。慌てて敏子と奈美はついていった。

 部屋に入ると、佐々木が立ち上がり近寄って来た。

 「やあ、しばらくです。今日は何ですか?」

 にこやかに赤嶺を迎える佐々木に、敏子は目を丸くした。その様子に気が付いた赤嶺が、慌てて敏子に弁明した。

 「あっ、すみません。申し上げていなかったですね。じつは、佐々木課長からは、サイバー犯罪の解析依頼を請け負っていまして、以前から知り合いなんです。」

 敏子の安堵する様子を確認して、早速、書類を見せた。

 「この方が、脅迫被害を受けています。スマホが遠隔操作されて、そこから手に入れた画像をもとに・・・。詳細をまとめてみました」

 奈美はスマホを佐々木に渡した。

 佐々木は隣の取調室に三人を案内した。生活安全課は人の出入りが多い。他人に話を聞かれず、密かに話をするにはここに限る。赤嶺にとってはいつものことだが、敏子と奈美は、入り口の取調室の表示に、困惑した。

 佐々木は、赤嶺の作成した解析書を読み終わった後、書面を机に置いて言った。

 「赤嶺さんの解析なら間違いない。とりあえず、スマホを預かっていてもいいですか?」奈美に言って、返事を聞く前に続けて言った。

 「こんなにストレートな脅迫にでてくるとは・・・。ストーカーではありませんね。脅迫による性犯罪を狙っている。刑事案件だ。刑事課長も話に入ってもらおう。一緒に来てくれるかな?」

 また返事を聞く前に動き始めた。赤嶺は、山で生活しているせいか、せっかちな佐々木の行動に振り回される感覚に陥った。敏子と奈美を見ると、彼女達は必至だ。一生懸命、佐々木の歩調に合わせていた。

 刑事課は二階だ。佐々木は、ノックもせずに、入っていった。刑事課は閑散としていた。

 「横山さん。お願い事です。今日は、静かですね」

 横山は、佐々木に目を止めて言った。
 「おうっ、九月の強盗致傷が山場を迎えてる。どうした?」

 佐々木は、書面とスマホを横山に渡した。

 「単純なストーカーでは済まないと思ってね。そっちの案件になりそうだ」

 横山は熟読した。佐々木とその他三人は、静かに待っていた。横山は、おもむろに言った。

 「赤嶺さんの分析か? じゃぁ、問題ないな。れっきとした脅迫だ。しかも、発生から日が浅くてここまで行くか? 危険だな。九月の強盗致傷も、金や怨恨か?と思ったらストーカー絡みが濃厚だ。なんて世の中だ・・・。分かった。預かるよ。急がせよう。おいッ、長谷川!」

 若い刑事を呼んで赤嶺が作った書面を見せて、指示を出した。

 「赤嶺さんは、いつも協力してくれてるから、赤嶺さんの署名があれば、裁判所も信用してくれる。あの書類をもとに令状を申請するよ。それで相手を特定できるだろう。早い方が良い」人を探すために、見渡した。「誰もいないな? よし! 二人を借りるぞ」

 敏子と奈美を連れて、横にある応接セットに向かった。赤嶺は、近くの開いた椅子に座り、待つことにした。佐々木が問いかけてきた。

 「彼女とはどういう関係ですか? 赤嶺さんはいつもより饒舌だし、彼女の様子を見てると何か良い関係みたいだ」

 赤嶺は、改めて自覚した。確かに、彼女といると心が浮かれる。しかし、今、肯定し浮かれる心をひけらかすのは不謹慎だ。

 「世話になっている会社の事務員ですよ。それより、佐々木さんこそ対応が素早くないですか? 娘さんは美しいですからね」

 佐々木は声を潜めて笑った。

 「やられたな。それはそうと、猟には出てるのか? 今年はハンターに対する苦情が多い。困ったもんだな」

 赤嶺は、答えた。

 「まだ、行ってません。山の仕事を急がなければならないので・・・。そう言えば、猟友会の会長から聞かれて、一人気になるハンターを見たので報告しました。弟子屈署には報告したと思います」

 「ああぁ、あれは、赤嶺さんの情報か? 報告が回って来たよ。ピックアップトラックのハンターだろう? ナンバーが分かっているんだ。パトロールにも情報を入れている。警告を出すことにする」

 敏子と奈美は、立ち上がり、横山にお礼をして赤嶺のところに戻って来た。横山は赤嶺に言った。

 「何か月も掛けて、ここまで入り込む奴は知ってるが、コンタクトを取ってから、十日だろう? 異常だよ。ずうっと監視していたんだろうな。ようやく理想像を見つけ、爆発したということだよ。こっちでも調べてみるけど、あのメールの数も短期間にしては尋常じゃないな。後は任せとけ」佐々木に向かって言った。「一人貸してくれないか? 女性がいいな。さっきの長谷川と組ませるよ」

 敏子と奈美は横山の言葉に安堵したのだろう、少し笑顔が戻った。赤嶺達は、佐々木の先導で、刑事課を後にした。歩きながら佐々木は赤嶺に言った。

 「今年は、ハンターの苦情が多い。各市町村の猟友会にも通達を出したが、赤嶺さんは山仕事もしているから、気を付けてくれ。それに、IT関連の事案が出たらまたお願いするよ。札幌に送っていたら、敏速な対応が難しい」

 出口まで、佐々木自ら見送ってくれた。佐々木が奈美に言った。

 「あのスマホは、少し預からしてもらうよ。犯人と通信することになるかもしれないが、費用に関しては心配いらないからね。ちょっと不便になるがよろしくお願いします。解決まで通信を維持していたい。通信会社にはこちらから伝えます」

 二人とは、警察で別れた。赤嶺は立ち去る敏子を見守っていたが、敏子は名残惜しそうなそぶりを見せようとしなかった。今は奈美のことで頭がいっぱいなのだろう。赤嶺は二人の姿を温かく見送り帰路に付いた。

 赤嶺が生きてきたITの社会が、世の中に充満し、それと共に影の世界も広がって来た。

 赤嶺は塘路に居住するまで、人間社会に必ず現れる負の要素が、自分が生きるITの世界にも当然のように現れるのを、むしろ、人間らしい社会の生業(なりわい)として、ある意味肯定的に受け止める自分がいた。しかし、今では、ITは進みすぎた人間社会の驕りの化身ではないかと感じるようになった。

 赤嶺は、人間社会の驕りの歪は、自分の生い立ちが証明してると受けとめている。しかし、自分がITを捨て去ることができないように、ITは人間社会を席巻し、今では、ITが社会を構築する大きなバックボーンとなっている。 

 赤嶺は、ITの逸脱した状況を矯正する目的で、罪滅ぼしの意味を込めてITと向き合う決心をしていた。警察に協力するのも当然と理解していたのだ。

 その空虚な行動を支えてくれているのが、カムイモシリの住民との交わりだ。生命が交差するカムイモシリは、生と死が表裏一体となっている。光と影が相互に依存している。

 カムイモシリの世界からITの世界に思いを巡らすと、ITの世界は、周り一面が光り輝く世界となり、影の存在が目視できない状況になっていると言えよう。それは、影という負の世界が、人々の内面に潜り込み、誘惑という形で人々を操るようになっているということだ。

 赤嶺は、車の中で、今回の出来事が、敏子との交際を奈美が許してくれるきっかけになるのではないかという思いを巡らした。と、同時に、いかがわしい想いにふける自分を戒めた。しかし、素直な気持ちを否定するつもりは無い。むしろ、この気持ちを大事にして、二人に降り注ぐ負の災いと立ち向かう決意をした。

 帰宅した赤嶺は、敏子が持ち込んだ書類を基に、早速、プログラミングの作業に取り掛かった。山の仕事も急がなければならない。一時(ひととき)も無駄にしたくなかった。

 翌日も雨が残った。低気圧が、予定より北に進路を取った。おかげで、南風が温かい空気を運び入れ、雪にならずに雨が降り続いた。しかも、低気圧は停滞気味だ。雨は二日目に入った。

 一日中、モニターの前に座り続けた。使い手を想像しながら、プログラミングを構築していった。当然、敏子の姿がそこにあった。ある意味、敏子のためにという思いが根底にある。

 プログラムの仕事は、本来、冬の時期を中心に、できるだけ断ることにしている。山の仕事が忙しくなるこの時期は、矢野が経営するIT企業からの依頼は、了承を得て少なくしていた。山仕事は、天候次第だ。秋から冬に入ろうとする季節の変わり目は、天候が安定しない。山仕事と、プログラムの仕事を両天秤にかけるのは、気が焦るだけだ。しかし、今回の仕事は別だ。もちろん、敏子が絡んでいるからだ。

 夕方、まだ明るさが残る頃、敏子が奈美を連れてやって来た。まだ、会社の終業時間には間がある。不思議に思い、様子をうかがっていると、笑顔で車から降りてきた。玄関のドアを開けるなり、敏子が言った。

 「特定できました」

 興奮する敏子を宥(なだ)め、リビングに案内した。コーヒーでもと用意しようとすると、いきなり話し始めた。

 「相手が誰だか特定できました。神奈川に居るそうです。他にも被害届が出ているそうで、あちらの警察も目を付けていたそうです。今回の証拠で逮捕することになりそうです。ありがとうございます」

 赤嶺は、この親子だから、早く対処できたと思った。隠し事も無く、親子が近い信頼関係を持っているからこそだ。自分の娘達とめぐみの関係を思い起こされた。赤嶺は言った。

 「それは良かった。大事になる前で・・・」

 敏子は、少し間を空けて話した。

 「それで、今回のように、スマホの解析の作業はおいくらになるのですか? 友人に聞いたのですが、民間は結構高いということで・・・」

 赤嶺は面食らった。敏子からお金の話が出てくるとは。

 「結構ですよ。そんなつもりはありません」

 横で、奈美が怪訝な顔で敏子を見てる。その様子も気になったが、ちゃんと答えることにした。

 「警察の仕事は無償のボランティアです。今回は、まさに、あてはまる事案ではないですか? ですから、無料なんです」

 敏子は納得いかないようだ。

 「でも、突然迷惑を掛けて・・・」

 「簡単に言うと、警察の依頼は私にとって、一種の罪滅ぼしなんです。ITを促進してきた自分に課せられた使命でもあるんです。ですから、お礼なんて必要ありません。それより、会社はいいのですか?」

 「警察から連絡がありまして、部長が早退して赤嶺さんにお礼に行けということで・・・。ですから、早退は会社公認です」

 奈美が、苛(いら)ついてる様子だ。気になったが、気楽に話しかけるのも気が引けた。しかし、部長も電話で済むところを、わざわざ出張らせるとは・・・。場を繕うため、仕事の話をすることにした。

 「プログラミングはもう少しで仕上がります。山の仕事の合間を見て伺いますので、デザインなど、直したいところを後で相談しましょう」

 敏子は、安心した素振りを見せて、帰り支度を始めた。奈美は苛立ちのピークのようだ。理由は、最後の挨拶ではっきりした。

 「それでは失礼いたします。今後とも母をよろしく・・・」

 奈美は踵(きびす)を返し、車に乗り込んだ。赤嶺は、敏子と目を合わせた。敏子は、慌てて車に乗り込み、奈美と言い争いになった。赤嶺は、苦笑しながら見送るしかなかった。周りの人達には、すべてお見通しということか? 近頃、味わうことのなかった幸福感を噛みしめた。

 十二月に入ると、塘路湖の冬の装いはより深くなってきた。根雪が各地で話題となっている。しかし、釧路地方は元々雪が少ない。気温が下がる冬型の気象配置は、むしろ、日差しを保障してくれる。道東の冬は雪の世界というより氷の世界なのだ。

 敏子は時おり赤嶺のもとにやって来るようになった。向いの農家、庄司も詮索を諦めたようだ。日常的となった出来事に興味を失っていた。敏子との触れ合いも日常ということか? 新たに感じる安らぎは、赤嶺に自分の置かれた環境がより充実してきたことを実感させていた。

 赤嶺は山仕事の段取りを変更することにした。カノジョは雪が大地を閉ざすころには穴籠りに入る。それも、もうじきだ。静かな環境で冬を迎えられるよう穴の近辺を早急に終わらせることにした。

 今日は、まず、穴の確認をしなければならない。カノジョはまだ付近をうろついている。エゾリスは落ち葉に隠れたクルミやドングリをせっせと確保している。確実に冬が迫っていた。

 カノジョとは目を合わせる機会が増えてきた。穴から離れる距離が、確実に狭まってきている。この頃になると、赤嶺とカノジョとの間に、一種の信頼関係が生まれていた。赤嶺の仕事の風景はカノジョにとって、日常の景色になっているのだ。

 尾根に辿り着き、ゆっくりと尾根伝いに歩いてみた。安住から聞いた地点を見渡せるところまで来てみると、ミズナラの林がそこに広がっている。樹種が均一だ。さほど荒れていない。この程度なら、カノジョの存在に注意しながらでも、二~三日で終わらせると判断した。双眼鏡で詳しく調べてみた。安住が指摘したところから三〇mほど離れた南斜面にある大きなミズナラの下に、カノジョの住居を確認した。日当たりの良さそうな場所だ。子を産み、春になると穴から顔を出す子熊の可愛らしい姿を想像した。理想的な場所だと思われた。

 風向きが変わった。日差しを含んで温かみを帯びた緩やかな風の中に、カノジョと思われる匂いを感じた。確実に、風上にカノジョがいる。しかし、茂みに潜んでいるのだろう、姿は確認できない。普段と違う行動を後悔した。作業を見せなければと、チェーンソーのエンジンを掛けた。動きを緩慢にして、いつもと変わらない状況を強調した。作業をしながら、その場を離れればいい。

 ふと、カノジョの子育ての情景を想像した時、敏子の面影を連想した。同時に、周りの景色から色合いが消えていった。言いようのない恐怖心に駆られたのだ。必死に頭の中で細胞を活性化させる努力を重ねた。

 カノジョとは信頼関係が構築されているはずだ。原因はカノジョではない。しかし、正体不明の恐怖心は、身体中に充満してきた。初めての経験だった。しかし、パニックになることは避けられた。むしろ、カノジョの存在が赤嶺の精神を支えてくれたのか? そのような感覚さえ感じられる。対象はカノジョではないはずだ。カムイモシリの空間から阻害されそうな感覚が支配した。

 東京で悩まされていた夢の恐怖と今回の恐怖心は同じとは考えられなかったが、この恐怖心が何を意味しているのかを思い巡らした。やはり、分からない。しかし、恐怖心の解明を諦めるのが辛さにつながるように感じられた。

 南の尾根まで後退した赤嶺は、深呼吸して、気持ちを落ち着かせた。しだいに、冷静ないつもの赤嶺に戻ることができた。カノジョは赤嶺との遭遇を避けるように立ち去ったのを確認した。

 このまま仕事を切り上げ、この場を離れることも考えたが、その安易な発想に抵抗を感じた。この場を逃げると、もう二度とこの山に立ち入る許可を得られないような感覚が芽生えた。

 冷静さを取り戻した赤嶺は、元の現場に戻り、予定した仕事に取り掛かることができた。穴にカノジョが居ない内にと、住居周りから作業を済ませた。穴の近辺に人間の匂いは禁物だ。距離を測りながら、今日の仕事を終わらせた。

 帰宅途中、安住の家に立ち寄った。朝に感じた恐怖心の正体を知りたかったのだ。

 安住は、初対面の時から赤嶺の疑問をすべて解くことができた。信頼は揺るぎないものがある。安住なら何でも知っていると確信していた。

 赤嶺は神妙な顔つきで安住に言った。

 「今日、例のカノジョの穴を確認しに行きました。そこから仕事を終わらせます」

 神妙な顔つきは変わることがない。静かに話を続けた。安住は、赤嶺のただならぬ表情に沈黙を貫いた。

 「実は、その時、異常な恐怖心に駆られました。カノジョとは、既に信頼関係ができています。カノジョのせいではないと思います。証拠に、その後、落ち着いた後には、穴の周辺で仕事に取り掛かれました」

 安住は、突拍子もない赤嶺の言葉にも平然としている。突然顔をほころばせた。

 「その時、何か思い浮かべてなかったか?」

 安住には全てお見通しなのか? 打ち明けなければ話が進まない。赤嶺は、安住に話すことにした。

 「今、お付き合いさせてもらっている女性がいます。庄司さんが見たと言っている女性です。実は、その時、彼女と娘さんの面影を思い浮かべました」

 安住は、優しく微笑み、話し始めた。

 「やはりな。その人と一緒になるのか?」

 「まだ、そこまで考えていません。でも、彼女の存在が身を守る本能として恐怖心を浮かび上がらせたのでしょうか?」

 赤嶺は、塘路に移住し、カムイモシリと一体になることで安らぎを得ることができたと信じている。その自分が、自然と向き合っていた時、恐怖心を抱いてしまった。敏子と一緒になるということは、自分の生き方を否定することにつながるのでは?と感じた。そのため、敏子との将来を考えていないという言葉になった。

 安住はまだ答えを出そうとしない。

 「その彼女は、何という名だ?」

 赤嶺は焦らされていることを自覚した。しかし、安住には逆らえない。

 「古関敏子といいます。高校生の娘さんがいます」

 「娘さんは承知しているのか? そう言えば、庄司が言っていたな。若い娘さんと一緒に来たことがあると・・・。庄司にも困ったもんだ。お隣で、なまじ家が見えるというのも考えものだな? 望遠鏡でも用意してるのかな?」

 赤嶺は、早く答えを聞きたかったが、安住は、赤嶺の真剣な相談を世間話の一環としてしか捉えていないのだろうかと訝しんだ。

 庄司は、赤嶺の隣で牧場を営んでいる。隣と言っても、間に牧草地があるため、直線で三〇〇m以上離れている。家と車の存在を確認できるだけだ。

 安住の質問に答えておこうと思った。

 「娘さんも賛成してくれています。ただ、彼女の存在が、自分の生き方を否定して守りに入ってしまったのではないかと、疑問を感じています。その証拠が、恐怖心ではないかと・・・」

 安住は、相変わらず笑顔だ。いつの間にか、妻の節子も少し離れた所で笑顔を見せていた。節子が安住に言った。

 「焦らさないで、話してあげないと・・・。あなたも同じだったでしょう?」

 赤嶺は、意味が解らず、困惑した。安住は、笑いながら、おもむろに話し始めた。

 「こいつと一緒になる時に、当時のエカシ(長老)から聞いた話を教えてあげるよ。いいか? 誰でも恐怖心は持つべきなんだ。恐怖心が無いということは、無鉄砲につながる。無鉄砲な行いは、相手に警戒心を与える。警戒心を持たれると、どうだ? 上手く付き合えると思うか? 赤ちゃんは、今まで、相手に警戒心を抱く機会を、運よく与える間が無かっただけだ。山に入っても、最初から周りの生き物達に対し謙虚だった。そこには、自分と相手しか居ない。謙虚に頭を垂れてさえいれば、相手は赤ちゃんしか居ないのだから、最初からカムイモシリの住人として受け入れざるを得ないだろう? ただ、その謙虚さは、単なる手段だったのではないかな? 教わった手段なのか、心構えとしての手段だったのか、どっちにしても、手段として謙虚だったのではないか?」

 ここで、節子が口を挟んだ。

 「赤嶺さんは、カムイモシリの真の住人として認められるには、もう一つ越えなければならない垣根があるということよ」

 安住が節子を睨んだ。いいところを持っていかれた。しかし、この家では、節子が主導権を握っていることを赤嶺は知っていた。咳払いをして安住が続けた。

 「いいか? 表裏一体ということだ。表裏一体は安穏とした心には理解できない。恐怖心を知らなければ自覚できないことだ。光には影が付き物だということさ。ただ、赤ちゃんは、今まで生活の手段として、光に照らされた世界しか知る必要がなかった。必要性がなかった。その、古関さんと言ったか? 彼女が気付かしてくれたということではないか? カムイモシリには明らかに階級が存在する。たとえば、本来なら、キムンカムイ(ヒグマ)がこの大地の王者だ。人間は対等ではない。畏怖(いふ)の念を抱きながら謙虚な姿勢を取って、初めてキムンカムイはその人間を認めてくれる。下から見上げれば、そこには影も一体となって見えているだろう? だから立体像として偉大な存在として見ることができる」

 赤嶺は、おぼろげながら納得したような気がした。あの時、カノジョは赤嶺を見下していたのかもしれない。対等と思い込む人間に思い知らせるために、ほんの少し殺気を浴びせたのかもしれない。今までは、赤嶺一人がカムイモシリに抱かれてさえいればよかった。一人ということは、手段としての謙虚さは安易に表現できる。

 敏子と一緒になるということは、次元を変えなければならない。守るべき家庭の存在だ。それまで、鈍感な赤嶺は気付かなかっただけで、敏子が赤嶺に気付かせたということだ。一度、カムイモシリを捨てた人間は、舞い戻って来ても、所詮、階級の一番底辺に存在させてもらわなければならない立場だということを・・・。いくら謙虚な姿勢を示していても、手段としての謙虚さはカムイモシリの住民にはすぐに悟られる。そこには本心が伴わない。独り身でいる内は、その『手段』で通用するかも知れないが、守らなければならない存在の出現は、新たな境地の必要性を考えなければならないということだ。

 赤嶺にようやく笑顔が戻った。そうなると、安住の独壇場だ。あれやこれや、敏子のことを聞き始めた。

 「その女性は、何歳だ? 今度合わせてくれよ。・・・」

 赤嶺はひと言だけ言った。

 「今度、機会があれば・・・」

 それでも、興味津々に話し始める。

 「上手く逃げたな? いいか、繁殖本能は生物の根源だ。恥ずかしいことではないぞ。おれなんか、未だに女房と同じ布団だ」今度は、節子が睨み付けた。しかし、構わず続けた。「よく、物欲と性欲を同等に扱う輩がいるが、大間違いだ。山に居る連中は物欲を持っているか? 生きることを謳歌したいだけだ。キムンカムイ(ヒグマ)もチロンヌップカムイ(キタキツネ)もサルルンカムイ(丹頂鶴)も、みんな繁殖ができなくなると、そこにあるのは死だけだ。カムイチップ(サケ)なんか見てみろ。卵を産んだと思ったら、すぐに死だ。俺は生きることを謳歌してもいいと思うぞ。みんなと同じように・・・。女性を愛することは、カムイモシリで生きぬくことの条件のひとつだと思うけどな。ところで、お前の歳ならまだ能力の方は・・・」

 さすがに節子の視線はきつかった。節子の咳払いに助けられた。

 その夜、節子の言葉を思い返し、中々寝付けなかった。恐怖心を持たなければ、カムイモシリの住人になれないという。しかし、その言葉通りとしたら、カムイモシリは恐怖に支配されているということか? リスやウサギ、丹頂鶴やフクロウ、キツネ、鹿、そして、ヒグマまでもが恐怖に支配されているというのか? 考えられない。彼等は、皆、生命を謳歌しているにすぎない。

 赤嶺は、さらに考えた。彼等は、生きる手立てを探すことで手一杯だ。死の道筋を想像する余裕さえない。いや、その知識を持ち合わせていない。つまり、恐怖は、天敵の出現の瞬間しか感じ得ない。哲学する術(すべ)を知らないのだ。それに対し、人間は、常に死の存在を意識する。常に死の恐怖を感じることができる。その結末を予想することで、数限りない知恵を身に付けてきた。その恐怖から逃れるために、原因を一つ一つ排除してきた。おかげで、寿命は画期的に伸びたが、その努力空しく、肉体の細胞には時間の限りがある。

 取りとめもなく、考えを巡らし、いつしか眠りに就いた。最後に頭に浮かんだのは、やはり、幼い頃から常に夢の中に出てきた情景だった。塘路に来てしばらく忘れていたのだが・・・。友人達が自分から離れて行く。しかし、足元がおぼつかなく、友人に追いつけない。背後には、奈落の底につながる暗い闇が迫る。なすすべもなく、恐怖に駆られる瞬間の夢だ。

 翌日も、同じ場所に出向いた。昨日は気付かなかったが、その場所に立つミズナラの古木の下に、木くずが散らばっている。見上げると小さな穴が開いていた。エゾモモンガの巣だ。安住が話していた巣に違いない。昨日までとは違う気持ちで眺めていた。今までは、自分という人間も、山に住む生き物たちも同等にという感覚だった。しかし、一度、山を捨て、都会を形成し、野生を排除した閉鎖社会を形成した人間の世界から、再び山に戻った赤嶺は、所詮、一番下の地位しか与えられないのだ。

 カムイモシリには純然たる階級社会があるという。食物連鎖という制度によって、明確に階級が築き上げられてきた。その、頂点にキムンカムイ(ヒグマ)が君臨する。キムンカムイに天敵は存在しない。存在したとしても、同族同士の縄張り争いや、オス熊による邪魔者扱いされた子熊への攻撃と防衛するメス熊の争いだ。どこか、人間社会と共通する所があるような・・・。

 人間は、太古から積み上げられた知識と技術によって、社会発展に邪魔と感じた者達をせん滅してきた。その驕りの反動で、今度は保護と主張する。しかし、山に一人で立つと、己のか弱さを痛感させられる。保護は、所詮、上から目線の支配に他ならない。経済というシステムに取り込まれなければ、保護政策がなかなか前に進まないのはその証拠だ。

 恐怖は生存の証だ。昨日感じた恐怖は、明らかにカノジョに対しての恐怖ではない。知恵の備蓄と道具の発展によって忘れさせられていた、カムイモシリへの恐怖だ。畏怖ということだ。安住の妻節子の言葉を引用すれば、その畏怖を持つことで、カムイモシリで生存する資格を得たということなのかもしれない。

 人は、他のカムイモシリの住民と違い、二つの真理を自覚しなければならない。それは、『死』と『和』、または『輪』だ。カムイモシリの住民達には自覚せずとも生まれながらに備わっている感覚だ。人間だけが、自らの意思で自覚しなければならない。

 生を受けたとき、死は既に運命づけられている。それが、自然の摂理で何者も避けることができない。人間には、積み上げられた知識のおかげで恐怖心が常について回る。人間だけが、その恐怖心の束縛から逃れようとする。恐怖心が無くなればどんなに楽になるか試行錯誤する。しかし、それは、生誕の意義さえも放棄することにつながり、すなわち、無そのものであるというジレンマに陥る。他の方法を追い求めようとするが、それは、誤魔化しであり、真理に通じない。

 カムイモシリでは、自分の死が他の者達の生誕につながる。自分の生存は、植物も含め、他の生命からの供給に依存している。寿命が長く、自らの死を他の生命体へ供給することを拒否する取り決めをした人間だけが、死の受け入れを自覚し、カムイモシリの『和』を尊重する姿勢を強く示さねばならない。

 『和』は、すべての生物に対してはもちろん、人間自らの社会の中にも考えていかなければならない課題だ。人間が、カムイモシリに対して行う『和』とは何なのか? 赤嶺は自問自答を習慣としなければならない。

 赤嶺は自らが操る道具と知恵で貢献できるのではと考えてきた。しかし、今日からは、考え直さなければならない。自分は、この地では新参者で、『和』に属しきれていない存在だったのかもしれない。

 赤嶺は、猟をする。その行為は、『和』に反するのか? 安住から明確な回答を得ている。猟で手に入れた肉は、自らの生存を維持する糧として利用するのだから問題ない。食料や道具に適さない部位は、カムイモシリの住人の物として整理の上、血の一滴さえ大地に献上する。

 恐怖を知った赤嶺は、『生存』に、より高い価値を見出した。ある人は、恐怖から逃れるために苦しまない死の方法を考え出し、自らの生命を断とうとする。利己的な強弁だ。自死は『和』を無視する行為だ。『和』を尊ばない死は、この世において、その人間の存在意義その物を失くしてしまう。

 赤嶺は作業の手が止まっていることに気が付いた。カノジョのために仕事を急がなければならない。その想いに包まれた時、ふと気が付いた。『和』または『輪』か? これからは永遠の課題として付き合おう。その付き合いの努力こそ、生きる証ではないかと。重荷ではない。むしろ、清々しさを感じる。恐怖と上手に、しかも、楽しく付き合える気がした。

 今日は作業ルートを広げるように山の作業を進める。十二月十二日は『山の神』の日で、林業や猟師など山の恵みを生業とする人達にとって、一年の区切りで、一番大切な祭りの日である。もうすぐその日がやってくる。カノジョの住まいの環境をそれまでに綺麗に仕上げてあげよう。

 赤嶺は、元来、信心深くないのだが、林業会社に世話を受けている以上、その習慣に従う癖を得ていた。けじめの日と自然に身に付いていた。会社では神事を執り行うが、定年退職した今は、出席を遠慮していた。和人の宗教心に由来するからというわけではない。 赤嶺は、無宗教論者だ。カムイモシリに敬意を払う感覚は、宗教心ではない。赤嶺にとっては、極当たり前の、合理的な生活の骨組みとなっていた。今日からは、畏怖の感覚が加わり、新たな心境が開けた。

続く(次回更新:11月3日火曜日)

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