テツ男社長のたわごと

還暦を迎えた釧路駅

 駅舎の上にはJR北海道釧路支社が入っていまして〝ひがし北海道〟の拠点駅は釧路です。現在の駅舎は、1961(昭和36)年に民衆駅として誕生して今年60歳、人で言うところの還暦を迎えました。
 開業したのは1901(明治34)年7月20日で白糠まで開通しました。当初は釧路市交流プラザさいわい(幸町9-1)付近に駅がありました。1908(明治41)年1月21日、小樽から旧釧路新聞の記者として勤務するために旭川経由でやってきた歌人、石川啄木が下り立った駅です。しかし、線路を根室方面へ伸ばすためには幸町にあっては延長ができず、そこで浜厚岸まで開通した1917(大正6)年12月1日から今の北大通14-5に移転しました。

釧路駅の暫定開業を伝える釧路新聞(1961年7月26日)
釧路駅の暫定開業を伝える釧路新聞(1961年7月26日)

 戦後、釧路市の発展にともなう人口増と観光客の増加により、駅舎の改築が国鉄内外で議論されていました。この頃、国鉄駅舎の改築と経済効果の高い駅前の有効利用を図るための手段として、衆議院運輸委員会の決議にもとづき国鉄は「民衆駅等運営委員会」という諮問機関を設置しました。国鉄は民衆駅建設に際しての条件を同委員会に答申したところ、この条件にあった所から続々と民衆駅の要望が全国からあがってきました。民衆駅とは、事業者を駅舎内に入れるなどして民間の力を活用した駅舎のことで、建設までの期間が国鉄直轄で実施するより早いと言われていました。
釧路もその条件にあてはまることから、1959(昭和34)年6月20日、釧路市長、釧路市議会議長、釧路商工会議所会頭の連名で釧路鉄道管理局長に対して陳情書を提出しました。民衆駅建設の受け皿となる釧路ステーションビル株式会社の設立を翌年1月に決め、2月12日に国鉄総裁に対して釧路市長は釧路駅建設の申請を行い、9月に承認され工事が始まりました。
全面開業を前に1961(昭和36)年8月1日から待合室、出札所、乗車改札口などが使用されました。当時の釧路新聞によると、港まつりなど大規模なイベントが目白押しで、外来客を迎え入れるため、工事は終了していませんでしたが、利用できる施設だけで始動しました。その後9月8日に地下のステーションデパートもオープン、駅前整備が終了した12月3日に竣工しました。

民衆釧路駅の竣工を祝う釧路新聞の広告(1961年12月2日)
民衆釧路駅の竣工を祝う釧路新聞の広告(1961年12月2日)

 釧路駅は現在、5番ホームまであります。4,5番ホームへ上がった付近に、線路をはさんで駅裏側に木造の変わった建築物があります。これは1970年4月15日で廃止された雄別鉄道への連絡地下道の名残です。同鉄道は、阿寒町の雄別炭礦の石炭輸送を主な任務として建設されましたが、旅客輸送もしていました。阿寒町の雄別炭山と釧路を結んでいました。

地下道と通じていた雄別鉄道の名残を残す建築物

 その地下道の2、3番線階段近くに、「1968-10」の刻印があります。1968年は昭和43年、つまり国鉄が〝ヨンサントウ〟の白紙ダイヤ改正を実施した年でした。輸送力を高める必要があり、4、5番線の〝第3ホーム〟を設けました。おそらくそれを記念したものだと思います。

地下道の刻印「1968-10」
地下道の刻印「1968-10」

 釧路駅の1番線ホームの一部は、古いレールを柱代わりにしている場所があります。レールの横には、製造された年月などが刻印されています。改札口を出ると一本のレールが上屋を支えています。その横をよく見ると「OTARU 工 (判読不能) OH LACKAWANNA 600 5」と読めます。LACKAWANNAは、アメリカ合衆国のラッカマンナ鉄鋼会社のことです。古さもありますが、珍しく貴重なレールです。

釧路駅1番ホームにあるLACKAWANNA製の古レール


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