テツ男社長のたわごと

釧路、根室地域の廃線になった鉄路(その1)

釧路、根室地方にはたくさんの鉄路がありましたのでご紹介します。

 

1965(昭和40)年ころの釧路、根室地方の鉄道。尺別鉄道や浜中町営軌道、標茶町営軌道、別海町営軌道などがなぜか記載されていません(「国鉄職員用 レクレーション全国旅行案内書」から)

 

1 雄別鉄道

 雄別鉄道は、釧路管内阿寒町の雄別炭山駅と釧路駅を結び、石炭や原木、生活物資などの貨物輸送と旅客輸送を担っていました。その距離は約45㌔でした。

 1923(大正12)年1月17日に本線が北海炭礦鉄道として開業、翌年に雄別炭礦鉄道に社名を変えました。開業当時の途中駅は、舌辛駅(後の阿寒)、平戸前駅(後の北斗)、新釧路駅(当初は貨物駅)だけで、2時間ほどかかっていました。

 その後、本線から分岐して新富士駅を通り釧路港の雄別埠頭駅までの埠頭線、新釧路駅から水面貯木場までなど、線路を伸ばしました。1959(昭和34)年に設立した雄別鉄道に鉄道部門は譲渡されました。

 しかし、1970(昭和45)年2月28日に雄別炭礦が閉山し、それにともない同年4月16日に廃止しました。

 

雄別鉄道のディーゼルカー(DC)とDCトレーラー(1965(昭和40)年ころ釧路駅の屋上から)

 

 同鉄道の車両は、釧路市内の釧路製作所に8722、道の駅「丹頂の里阿寒」裏手のキャンプ場入口にあります「炭砿と鉄道館」裏手にC11-65が保存されています。釧路製作所のホームページ 株式会社 釧路製作所 | 確かな技術をお届けし、皆様の信頼にお応えします (kushiro-ses.co.jp) には8722の説明とともに、同社で以前に製作していた簡易軌道車両のペーパークラフトをダウンロードできます。8722は同社の敷地内にありますので、必ず同社の総務課に許可を得てください。

 

釧路製作所敷地内に保存されている8722

「炭砿と鉄道館」裏手にあるC11-65

 

 また、廃止された路線のうち、釧路市昭和から阿寒町までの約25㌔は「釧路阿寒自転車道」としてサイクリングロードになって、今も活用されています。

 

旧山花駅付近に設けられた休憩所。近くに温泉施設のある山花温泉リフレも

 

 

2 尺別鉄道

 尺別鉄道は、釧路管内音別町内で石炭や生活物資などの貨物輸送と旅客輸送のために走っていました。現在のJR北海道尺別信号場から北へ約11㌔入った尺別炭山駅までです。

 1920(大正9)年1月17日付で北日本鉱業尺別炭礦の専用軽便軌道として許可を受け、運行を開始しました。軌間は762㍉のナローでした。開業当初は尺別信号場付近に駅はなく、同社は国鉄に対して信号場の設置を願い出て、同年4月1日付で信号場ができ側線で貨物の取り扱いをしました。

 1928(昭和3)年、経営が阿寒町の雄別炭礦鉄道の手に渡ります。国鉄と軌間が違っていたため貨車をそのまま国鉄で運ぶことができず、尺別駅では同炭礦から運ばれた石炭を島式ホームに一度卸ろし、それを国鉄の貨車に人力で積み込む作業が行われていました。

 そこで軌間を国鉄と同じ1067㍉にする工事が進められ、1942(昭和17)年11月3日から運行を開始、これにより尺別炭山駅からの石炭列車は、そのまま国鉄に引き渡され、主に釧路港へ向かっていました。

 1962(昭和37)年には地方鉄道になりましたが、尺別炭礦の閉山により1970(昭和45)年4月16日に廃止されました。

 尺別鉄道の車両は残っていません。施設の跡もわずかにあるだけです。国鉄の尺別駅も1930(昭和5)年4月1日に一般駅になりましたが、2019(平成31)年3月16日に旅客営業をやめ、信号場に戻りました。ここを列車で通過する際、構内が広いこと、直別寄りに社尺別駅があったと思われる広場が見えることが、同鉄道を蜂起させてくれます。

 ところで、雄別鉄道と尺別鉄道については元釧路製作所の社長で鉄道ファンとして大先輩の大谷正春さんが「雄別炭礦の鉄道~五〇年の歴史」としてまとめています。たいへん詳しく、資料も満載で私のバイブルになっています。

 

大谷正春さん著作の「雄別炭礦の鉄道」

 

3 釧路臨港鉄道

 釧路臨港鉄道は、釧路市の幣舞橋たもとの入舟町駅から久寿里橋たもとの城山駅まで、ほぼ一周していました。太平洋炭礦の石炭を港まで運ぶ目的で1925(大正14)年2月12日(2月11日と表記する書物も)春採駅と知人駅の間4.1㌔で営業を開始、3月16日に国鉄と連絡する別保信号場(後の東釧路駅)まで延伸しました。翌年1月15日には、旅客営業も開始しました。

 その後、鉄路は東釧路駅から城山駅、知人駅から入舟町駅まで伸びました。しかし、1963(昭和38)年には旅客営業を廃止、1979(昭和59)年4月30日に太平洋石炭販売輸送と合併し、同社の臨港線と改称しました。1986(昭和61)年には東釧路駅との連絡輸送がなくなり、開業当時と同じ春採駅~知人駅だけの運行になりました。さらに太平洋炭礦から採炭を受け継いだ釧路コールマインからの石炭は、主に市内だけに出荷することから港まで運ぶ必要がなくなり2019(平成31)年3月いっぱいで運転を休止、6月30日で廃止になりました。

 

国鉄と連絡していた頃の東釧路駅。手前が釧路臨港鉄道で向こう側が国鉄(1982年9月)

 

 廃止するまでディーゼル機関車(DL)が4両、石炭運搬をするセキ24両などが在籍していました。石炭の運搬方法は、貨車(セキ)の先頭と最後尾にDLを連結、選炭工場のある春採駅で2編成に分かれて石炭を積み込みます。作業終了後に連結して知人駅にある貯炭場へ向かいます。貯炭場でも2編成に分かれ、桟橋から石炭を下ろします。

 この方式は1967(昭和42)年から始まる〝シャットル・トレーン〟方式と言われています。機関車から、車両の分割やセキから石炭を下すための扉の開閉を行うことができ、作業の省力化に寄与しました。また、セキは2両で1ユニットとし、この2両は連接台車でつながっているなど最新技術が盛り込まれ、大量の石炭輸送に貢献してきました。

 

知人駅の貯炭場をめざし春採湖畔を進む太平洋石炭販売輸送の石炭列車(2018年11月17日)

 

 釧路市内の市民団体「くしろ元町青年団」は、石炭列車の記憶を後世に残したいと、廃止後一度は撤去された弁天ヶ浜にあった踏切を再現しました。その模様は、2020年10月31日付の釧路新聞に掲載されています。

 

踏切復活を伝える釧路新聞(2020年10月31日付)

 

4 釧路開発埠頭

 釧路港に関わる貨物線でした。会社の設立は1960(昭和35)年です。雄別鉄道の廃止にともない1970(昭和45)年4月15日に、同鉄道の埠頭線(北埠頭(旧雄別埠頭)駅~新富士駅)を引き継ぎました。その後、釧路西港の石油タンクからの油製品を十勝や網走地区などへ輸送するため西港線(新富士駅~西港駅)が1977(昭和52)年12月1日に開業しました。しかし1984(昭和59)年に埠頭線、1999(平成11)年で西港線も廃止されました。

 私は1978(昭和53)年から1983(昭和58)年まで、国鉄職員として新富士の構内係で勤務していました。当時は、西港駅からの石油類のタンク車が主力でしたが、十條製紙釧路工場の岐線、新富士駅自体も貨物を扱っていました。

 毎日80両ほどのタンク車が、釧路開発埠頭のディーゼル機関車で西港駅から新富士駅の9番線に運ばれ、それを釧路操車場からやってきたディーゼル機関車DE10が大楽毛方面へ引き上げ、方面別に振り分けます。構内係は、操車係の指示のもと突放された貨車に飛び乗り、手ブレーキを操作しながら組成します。中身の入ったタンク車を〝投げられ(突放)〟るのですが、車両が重たくてブレーキ操作が難しかったですね。

 

新富士駅で扱っていたタンク車いろいろ(1980年ころ)

 

 今の新富士駅は旅客扱いのほか、コンテナ車も扱う釧路貨物駅も兼ねています。構内の様子は少し変わりましたが、新富士駅を訪れるたびにタンク車や有蓋貨車に乗って突放や連結をしていた入換作業を思い出します。

 

コンテナ列車の入換作業。釧路らしいガス(霧)の中から突然列車が現れました(釧路貨物駅 2022年5月13日)

★次回は6月6日ころに更新します。


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