テツ男社長のたわごと
上尾幌+「残すこと」
今回の「駅の周辺」は上尾幌駅です。それと「残すこと」について思うことがありましたので、それをテーマにしました。
【上尾幌】開駅:1917(大正6)年12月1日
上尾幌の起源はアイヌ語の「オ・ポ・ペッ」(川口の大きい川)から出たもので、尾幌川の上流にあるので「上」が付きました。花咲線は平坦な線区なのですが、別保と上尾幌の間には唯一のトンネルが3カ所あり、山を越えます。1965(昭和40)年ころまで炭鉱もありましたが、現在は生椎茸を生産しています。
「駅の周辺」上尾幌駅(1997年10月9日付 釧路新聞)
花咲線沿線の駅舎は「味のある駅」があったのですが、門静駅はモダンになり、糸魚沢駅は廃止されました。その中にあって、上尾幌駅は昭和を十分に感じさせてくれます。
昭和を感じさせる上尾幌駅(2022年8月11日)
待合室には上尾幌駅の模型があります。厚岸町内で障がいを持った方たちの支援活動を行っていますNPO法人のんき村の授産施設で製作しました。
待合室にある上尾幌駅の模型
上尾幌駅は、東釧路と厚岸のほぼ中間にありますので、交換設備があります。交換列車は日中にはなく、夜の2本だけです。
交換設備のある上尾幌駅
駅舎の雰囲気が好きで「絵になる」上尾幌駅です。
厚岸方面から到着し、上尾幌から釧路へ向かうキハ54(停車中、一部カットしています)
【残すこと】
①第28回根北線鉄道工事殉難者・受難者追悼集会が7月31日に斜里町の第一幾品橋梁(越川橋梁)で行われました。地元の越川自治会、知床の歴史を語る会などのみなさんが参加しました。
越川橋梁で行われた追悼集会
根北線は戦前、北海道東部のオホーツク沿岸と根釧原野の守りを固めようと、標津町の根室標津駅と斜里町の斜里駅(現知床斜里駅)を結ぶ鉄路が計画されました。標津町川北、中標津町計根別などに飛行場がありましたし、根室市は千島列島への玄関口として重要な役割を担っていましたので、いわば軍事輸送の色が濃かったと考えられます。
斜里側から工事が始まりましたが、戦争が始まると皮肉なことに工事は中断しました。1957(昭和32)年に斜里から12・8㌔先の越川まで開通しましたが、1970(昭和45)年に廃止されました。越川橋梁は越川の先にありますから、結局一度も列車が通ることはありませんでした。
建設にはタコと呼ばれる労働者が従事しました。その過酷な労働や生活ぶりは、2021年に発行された「斜里町郷土研究 第13号」に記されています。知床の歴史を語る会の森亮一さんが、これまで関係者に会ってお話を聞いたことをまとめています。
根北線工事にかかわる聞き取り調査が掲載されています「斜里町郷土研究」
越川橋梁は、1939(昭和14)年に完成しました。10蓮のコンクリート製アーチ橋で登録有形文化財(建造物)に指定されています。国道建設の際、一部が撤去されました。追悼集会は、工事で亡くなった人たちの霊を慰めるとともに、負の歴史があることを後世に伝えようと、毎夏に開かれています。
北海道の開拓の歴史、特に鉄道や道路の建設には多くの犠牲があったことを忘れていけないと思います。私たちが楽しませてもらっている鉄道のそうした側面も勉強したいものですね。
一部が撤去されましたが今も残るアーチ型の越川橋梁
②語りつぐ青函連絡船の会設立20年記念フォーラム「航跡は未来への羅針盤」が8月6日に函館市青函連絡船記念館摩周丸で行われました。
青函連絡船は、1908(明治41)年から本州と北海道を結んでいましたが、青函トンネルの開通により1988(昭和63)年3月13日に幕を閉じました。
同会は、青函連絡船の歴史を残そうと2002年(NPO法人成立)に設立されました。青函連絡船の膨大な運航記録はデジタル化され、館内で見ることができます。例えば、修学旅行で○年○月○日に乗船したということがわかれば、その日の運航記録が出て、乗船した船の名前や定時だったかどうかもわかります。
貨車など積み込む摩周丸の船尾扉
昨年には、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の「世界の記憶」(世界記憶遺産)に登録申請をしました。
フォーラムでは、「車両は文化財」「文化は生命を守る大切なもので人の交流から生まれます」「文化遺産は観光遺産になります」などなどとても有意義なお話を聞くことができました。
鉄道や青函連絡船に関わる資料をお持ちの方はたくさんいらっしゃるでしょう。私もその一人です。年齢を重ねると「この資料を将来どうしようか」と考えています、現にご本人が亡くなったら、ご家族の方が処分して資料がなくなった・・・というお話を聞きます。
鉄道関係の資料を集約する施設なり組織がほしいですね。
わが家にある鉄道資料、さて将来は?
★次回は9月5日ころに更新します。
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