カムイモシリ

カムイモシリ 第五回

 和田山明彦作(釧路管内標茶町在住)

 十一月中旬を過ぎると、北国では、一段と日が暮れるのが早くなる。冬至に向け、一日の野外活動の時間が一層短くなり、昼食後の四時間の仕事は難しい。それでも、今日の昼でこの現場の作業は終わる。

 後片付けを考えても、日が暮れるまでは少し時間が取れそうだ。帰り道を少し寄り道すると次の現場に辿り着く。現場を見てみようと思い、塘路湖から続く山に向かった。赤嶺のログハウスからは、ちょうど対岸にあたる。

 湖畔近くからその山を見た。山というより丘と言った方がふさわしいようなところだ。雑木林のその奥にカラマツが茂り、枝や蔦が伸び放題だった。日当たりが悪く、確かに生育が悪そうだ。

 この奥でヒグマによる事故が起きた。赤嶺は作業工程の指示書と現場の見取り図を広げた。

 初めは湖畔から作業を開始しても簡単に頂上まで進めそうだ。しかし、その後が問題だ。山を越え、向こう側の斜面に入ると、カノジョへの警戒が必要になる。斜面の下にある、枯れた沢沿いに冬眠用の穴があったはずだ。三年前の事故は、まさに、その沢で起きた。しかし、人間の匂いが付いた穴に戻るはずがない。テリトリー内に、別のねぐらを確保しているはずだ。向こう斜面に仕事が進んだら、風向きに細心の注意が必要になる。

 背後に塘路湖を背負うように仕事を始めることにした。この時期になると、北風が多くなる。つまり、正面から風を受ける。人間の匂いを感じてもらうため、風下からの接近を本来は避けたかった。日中、カノジョと共存しなければならない。自分の存在を、音を持って知らしめる必要性を感じた。チェーンソーの多用が一番だ。効率には、むしろ、鉈(なた)の方が良い場合がある。しかし、エンジン音を響かせて、自分の存在を認識してもらうことにした。

 まだ、クマが穴に籠るには早い。冬を乗り切るために、今は、体脂肪の備蓄に励んでいるはずだ。今年は山の幸が豊作だった。近年は、異常気象でヒグマ達も苦労しただろう。しかし、今年は、苦も無く体脂肪を蓄えられたはずだ。そこが幸運だったと赤嶺は考えた。

 四年前は、ドングリや山ブドウなどの山の幸が不作だった。その翌年、まだ雪が残る中、カノジョは早めの活動を強いられた。しかも、二頭の子熊に乳を与えなければならない。

 三年前、山の掟を知る人間が犠牲になった。しかし、他の地域から来た作業員だ。知らない山に入る難しさを改めて思い知らされた事故だった。

 この山の作業は、順調に進めば、二ヶ月も掛からないだろう。天候に恵まれれば、子熊の出産前に立ち去ることができる。子育てのため、静かな環境を与えられるだろう。しかし、冬籠りには間に合いそうもない。作業に集中しながらも、寝床の発見に神経を使わなければならないと覚悟した。

 翌日、いよいよ、塘路湖の山に入る日が来た。しかし、出端を挫かれた。前線が停滞気味だ。予報では、時おり小雨で、後に持ち直すということだったが、本降りの雨は、止む気配がない。濡れた山に入るつもりはない。しかも、初めての山だ。山を眺めてから引き返すことにした。

 帰宅途中、ハンター仲間にヒグマの情報を聞くことにした。この界隈では古参のハンターだ。郵便局を退職し、塘路湖畔で、写真を撮ったり、馬を飼ったりして悠々自適の生活をしている。しかも、ログハウスの地主だった男だ。

 赤嶺は、彼のおかげで、素晴らしい立地のログハウスを手に入れることができていた。

 「こんにちは、ヨイッサンいますか?」 男の名前は、安住与一郎だ。みんなからヨイッサンと呼ばれている。赤嶺の鹿撃ちの師匠でもあり、この界隈のエカシ(長老)だ。自身がアイヌ民族の血を引き継いでいることに誇りを持っている。山について知らないことはない。

 「おうっ。赤ちゃんか?」 安住にしたら、赤嶺はいつまでたっても赤ちゃんなのか?もちろん、赤嶺という苗字から親しみを込めてつけられた呼び名だ。

 「今日は、ヨイッサンに聞きたいことがありまして・・・。三年前のヒグマの事故を覚えていますか?実はあの山で作業することになりました。あそこのヒグマのネグラに心当たりはありませんか?」

 「ほうっ、あの山か?そうだな、綺麗にしたら山の幸も増えるから、山オヤジにもいいことなんだけれどな・・・」

 安住はヒグマのことを昔ながらに山オヤジと呼んでいる。赤嶺は、メス熊はやはりカノジョだろうと思いながら話を聞いていた。

 「事故のあった地点から、北の山を一つ越えた沢の南斜面だ。間違いない。だが、まだ早いぞ。うろついている。気を付けねばな」顔色を崩して続けた。「そんなことは言わなくても承知してるか?」

 奥さんが出してくれたお茶を一口啜(すす)り、遠い山を見つめるように話を続けた。

 「あの山オヤジは、まだお嬢さんだ。三年前の出産が初めてだったはずだ。去年は、本来なら子熊を引き連れていたから、当然、出産しなかった。しかし、今年はオス熊が徘徊(はいかい)した痕跡があった。身籠っているかもしれないぞ。必死で守ろうとするだろうな。いつも以上に気を付けろよ」

 安住に教えられた通り、山はヒグマの聖地だ。共存する鹿も狐もみんなヒグマの顔色をうかがって生きている。所詮、人間はこの界隈ではよそ者だ。『謙虚に』ではまだ畏れおおい。それこそ、家の中に入り込んだネズミのように、媚びながら山にお邪魔させてもらっているというのが安住の口癖だった。

 赤嶺は、安住から昼食の誘いを受けた。恐縮してると、いつものように、台所から安住の妻節子が声を掛けて来た。

 「もう用意をしているのよ。無駄にさせるつもり?・・・」

 赤嶺は、久しぶりに安住家の食事を頂くことにした。この地に住むことになった時、安住夫婦から、山菜の保存方法や調理法を一から教わった。元妻がこの地に定住しないと分かってからは、余計に奥さんから手取り足取り仕込まれた。しかし、未だに味付けには自信がない。

 安住は、食事の用意をしている間、赤嶺に語り掛け続けた。

 「赤ちゃんがここに来た時は半信半疑だったなあぁ・・・。何せ、東京でハイカラな仕事をしてただけだっただろう?いつ音を上げるかとヒヤヒヤもんだった。あんなに立派なログハウスを建てて・・・。しかし、このカムイモシリ(神々の国)に馴染むのは早かったなあ~。この土地のシサム(和人)どころか俺達の仲間より立派なマタンキクル(狩人)に早々になることができた」

 赤嶺は、苦笑いをしながら答えた。 「私も、田舎育ちです。南の島で育ったとしても、自然の営みに違いは無いです。それに、記憶は無いけれど、私は山奥で産まれました。ですから、馴染むのに時間は必要なかったです」

 ここはカムイモシリ(神々の国)だ。北海道や蝦夷地(えぞち)というシサム(和人)が名付けた地名はしっくりこない。動物、植物、自然現象、人間が作り出した道具にさえ、すべてに神が宿る。

 トカプチュップカムイ(太陽の神)の恩恵を受け、カムイフチ(火の神)やベッコルカムイ(水の神)などの助けを受ける。

 山においてはキムンカムイ(ヒグマ)が頂点を成し、海においてはレブンカムイ(クジラ・シャチ)、夜を支配するのはカムイチカプ(シマフクロウ)。カムイチップ(サケ)、サルルンカムイ(丹頂鶴)、ありとあらゆるところにカムイが宿り、人間は神々に育まれ生活を成すことができている。

 赤嶺は、本来宗教心が薄い。しかし、生活の手段としてカムイ達を敬うことを素直に受け入れることができた。レラカムイ(風の神)に身をゆだねてさえいれば、己の日常に災いは起こらない。この鉄則を受け入れた時、長年束縛されていた自らの煩悩から解放される心境になった。

 食事の間、安住は言葉を発しない。食事の時は楽しい団欒ではなく、食事はカムイからの恵みであり、カムイに感謝の意を添えて口に運ばなければならないとの、幼い頃からの習慣ということだ。

 安住は、食事を終えて、お茶を啜りながら言った。

 「山オヤジについては、赤ちゃんはこの地の若者で一番の理解者となった」安住から言わせれば、六十代に入ったばかりの赤嶺は、まだ若者ということだ。「だから、山に入るときの問題は、よそから来たハンターということだな。もう、猟期に入って、内地からいっぱいハンターが入って来てるようだ。彼等の誤射が一番怖い。十分注意しろよ」

 赤嶺は、久しぶりに安住との語らいを楽しんだのち、日が暮れるころ、ようやく自宅にたどり着いた。三時を過ぎると、もう夕方の装いが始まる。

 ログハウスの前に、軽四が止まっていた。家に鍵をかける習慣が無くなっていた赤嶺は、見たことのない車に首を傾げながら、家に近付いた。

 日頃、猟友会の仲間や隣の住人などが、勝手に家に入り込むことがある。信頼関係の深くなった仲では至極当然な習わしだった。しかし、この車は見たことがない。家の中を覗くと、灯りがついていた。しかし、リビングには人影がない。

 家に入ると、台所から物音がする。驚いて近付くと、古関敏子がいた。振り返るといつもの笑顔で言った。

 「ごめんなさい。勝手に上がり込んで・・・。書類を持って来たんですけれど、部長が、今日は直接帰っていいと言うものだから、夕食でも作ってから帰ろうかと・・・」

 赤嶺は先日の柴田との会話を思い出した。やはり、気まずい想いを感じた。しかし、久しぶりに我が家で女性が料理に励む姿が嬉しかった。

 「御覧の通り、男所帯で散らかっていて大変だったでしょう。とても嬉しいのですが、娘さんが待っているのではないですか?もう、暗くなってきましたよ。急がなければ・・・」

 「もうすぐできます。後は味が染みるのを待つだけ。それに」一瞬躊躇するように続けた。「娘は今日、修学旅行に出かけました。ですから、いいんです。それより、書類をどこに置きますか?」

 赤嶺は、久しぶりに安住と語り合ったせいか、いつもより饒舌になっていた。気まずい空気を払うためにも、饒舌が助かった。

 「書類はあのとなりの部屋に・・・。あっ、待ってください。あの部屋だけには鍵が掛かっています」鍵を開けながら言った。「私は着替えてきます。山帰りなので・・・。中の机の上に放り投げておいてください」

 敏子は、コンロの火を調節してから、書類を手にその部屋に入った。敏子は思わず立ち止まった。その部屋は、異次元の世界に迷い込んだような装いだ。大きく重厚な机が並び、それぞれの机にパソコンのモニターが二台ずつ並んでいた。それとは別に、キャスター付きの小ぢんまりとした机には、同時に扱えるようにノートパソコンが・・・。背後には、難しそうな本が並び、その横には、整理されたファイルケースが壁を覆うように並べられている。奥には、金庫のような大きなロッカーが・・・。

 呆然と立ちすくむ敏子に、着替えを終えた赤嶺が言った。

 「昔は、これが私の本業だったんです。朝早くから夜遅くまでモニターとにらめっこでした。今は、山が私の居場所ですけれど・・・」

 その言葉に敏子は我に返った。 「すごいですね。私もノートパソコンを持っていますが、こんな装備は初めて見ました」敏子は肩をすくめて続けて言った。「比べるなんて、ばかみたい・・・」

 赤嶺は敏子の言葉に透かさず答えた。近頃では珍しいことだ。会話を楽しむ自分に驚きもした。

 「顧客の要望によってパソコンを選べるようにしてます。ネットワークから外さなければならない物もありますしね。この時期は時々しか作動させないので、普段、部屋には鍵を掛けてます。顧客の情報がそのままファイルしているので、そこのところだけは用心しなくては・・・。で、書類はそれで全部ですか?」

 「いえ、まだあるはずです。今日戻ってきた分だけでもと言われて・・・。あっ」

 敏子は、慌てて台所に走った。 「危ない・・・。もう少しで焦がすところだった」

 敏子は、頭を巡らした。部屋の中には、娘さんやお孫さんと思われる写真を飾っていた。でもそれ以外に、家族を匂わせる物はない。部長が言っていたように、離婚は間違いないと思った。思わず口に出た。

 「ご家族はどうしてるのですか?」 赤嶺は、何気に答えた。 「東京で暮らしています。長女は結婚して一人子供がいますが看護師を続けています、次女は美容師です。元妻は、再婚しましたが、やはり、看護師として働いています。娘達は時々メールをくれます。もっぱら孫とか彼氏の話、それに仕事の愚痴ですが・・・」

 赤嶺は、飾られた写真を見た。少し悲しげだ。敏子はその様子を見逃さなかった。

 「時々お会いできるのですか?」 赤嶺は、写真を見ながら言った。 「以前は、娘達が時々来ました。でも、仕事や子育てが忙しいようで、最近は来ません。私も年に一度、プログラミングの契約更新で東京に出た時は、娘達には極力会うようにはしてますが、めぐみは、元妻ですけれど、新しい家庭もあります。遠慮しなければ・・・」

 赤嶺は、メールのやり取りはあるが、最近、娘達や孫の声を聞いていないことに気が付いた。もし、電話があっても、今の自分が以前のように会話ができるのだろうかと不安に感じた。しかし、今日ならば・・・。

 赤嶺は、自分の子供が二人とも手が掛からなくなると、妻のめぐみの要望を受け入れ、離婚を決意していた。生き方の違いこそ露わとなっていたが、互いに嫌いになって別れた訳ではない。当初は、別居というより単身赴任の感覚で、塘路湖畔で暮らし始めた。しかし、塘路での生活は、赤嶺の人生観に大きな変化をもたらした。当然、めぐみの価値観との相違は広がるだけだった。

 めぐみは、ある意味、赤嶺の虚弱な精神性を母親に似た思いで支えることに喜びを得ていたのかもしれない。赤嶺が、揺るぎなく安定した言葉遣いになるにしたがい、夫の新しい魅力を発見した半面、めぐみは、自分のもとから離れて行くような赤嶺の姿に、言い知れぬ寂しさを感じていたのだ。

 収入は、以前、同僚だった矢野光男がプログラミングの仕事を回してくれる。矢野は、いち早く独立を目指し成功した男だ。赤嶺にしてみれば嫉妬の対象以外の何物でもなかった。しかし、矢野の目には実直と映っていた赤嶺の姿に、信頼を込めて仕事を回した。フリーランスのプログラマーとして、矢野の外注名簿のトップに名を連ねていたのだ。確かにフリーという立場は収入の増加につながった。地に落ちていた赤嶺の収入は、会社を退社してから、むしろ、大幅に増えていた。

 めぐみは、赤嶺が会社において閑職へ追われていたとき、家計を安定させるため、手の離れた子供達に不自由を与えない範囲で看護師として復職を遂げていた。

 赤嶺が退職しフリーとなり、収入が増えても、めぐみは、天職として看護師の仕事を続けた。生活の余裕は、気持ちの中に他人に対しての思いやりを向ける余裕を増やすことができる。めぐみは、そばに居ない赤嶺に変わり、患者という対象者を得ることで看護師の仕事に生きがいを見出していた。

 子供達は親の気持ちを敏感に感じていた。メールでやり取りする赤嶺の言葉の端々やモニターに映る表情から、父親の充実した生活を窺えた。母親の気持ちよさそうに疲れて帰ってくる様子から、仕事に打ち込む素晴らしさを学んだ。

 想いを巡らす赤嶺の姿勢のおかげで、少し場が暗くなった。敏子は、励ますように言った。

 「もう、子育てや、彼氏に会っていた方がいいんですよ。私の娘も、もう彼氏ができたみたいで・・・。どうなることやら」

 敏子は元妻という言葉に安堵した。赤嶺は自然に敏子のいる台所に行った。

 「結構な量ですね?どうですか?ご一緒に夕食でも・・・」赤嶺は思わず口に出た言葉に後悔した。「あっ、帰りが遅くなりますね?」

 「いいえ、別にかまいません。もしよろしければ・・・」

 赤嶺は、思わず出てしまった言葉に恥ずかしくもあったが、敏子の何気ない返事のおかげで、恥ずかしさより、久しく感じたことのない男としての幸福感で満たされた。六十過ぎてもこのような感情に囚われるとは・・・。

 しばしの静寂の中、敏子は恥じらいよりも、歓びに胸がはちきれそうになった。そして、娘と同年代の頃に感じた心の疼きに戸惑いも感じた。

 赤嶺は、初めてこの塘路で、男女の温もりを感じ、同時に、赤嶺も心の疼きに戸惑いを感じていた。

 めぐみがこのログハウスに来た時は、めぐみの醸し出す、山の生活に対する拒否反応が冷たい壁として感じられた。当初は、子供達の自然と戯れる喜びが勝り、東京での看護師の生活との二重生活を了承してくれた。しかし、この家で温もりを得ることはできなかった。赤嶺は次第に生活の中心を林業活動にシフトして、家族が滞在している時も、山に籠る習慣を変えようとしなかった。

 食事が終わり、このまま時間を過ぎるに任せていては、すぐに、元の独り舞台に戻ってしまう。赤嶺はログハウスで初めて独り身の寂しさを感じた。何とか心のほてりを長引かせたい。赤嶺はテレビを付けた。この日初めて、二人の物音以外の音声が流れた。

 赤嶺は二人の話題を探した。 「何か・・・、面白い番組やってないかな?」

 赤嶺は新聞を取っていない。ニュースソースはインターネットだ。テレビ番組を楽しむ習慣が無かった。プログラミングの仕事が入ると、山から帰り、風呂に入るとすぐにモニターに張り付いた。しかし、今夜は、何か二人の絆を深める手段を見出したかった。絆が深まれば、たとえ離れていても敏子の面影を抱き続けることができる。

 敏子は一瞬驚いた。赤嶺から出てくる言葉とは思えなかったからだ。何気に、敏子がいつも見ていた番組を教えた。

 「この日は、歌番組しか知らない。何か面白い番組あったかしら?」

 答えてから敏子は思わず反省した。六十過ぎの赤嶺と音楽の好みが合うはずがない。この時間、情報番組が見れることを思い出した。

 「NHKで何かの特集をやってない?」 返事をした後、敏子は食器を片付けながら耳を欹てた。チャンネルを変えているようだが、音楽が流れ始めた。赤嶺は、敏子がいつも見ている番組にチャンネルを合わせてくれたようだ。

 食器を片付けた敏子が、赤嶺の傍に来た。ソファーに座りながら言った。

 「私、この人のファンなの」 赤嶺は、目を輝かせて画面を見る敏子を見て、少年時代、初恋の人に当時流行っていたアーティストを赤嶺が知らなかったことに驚かれたことを思い出した。しかし、今の赤嶺は、現実を直視する術が身に付いている。塘路というカムイモシリが赤嶺を覚醒させてくれていた。すんなりと言葉に出した。

 「音感がしっかりしているね。とても上手だ。私はこの人を知らなかった。良いアーティストだね」

 敏子は驚いた。赤嶺が音楽を楽しむ姿を想像できない。しかも、音感とか、上手なアーティストという発言は音楽を嗜む人を連想させる。その時、隣の部屋にギターが置いてあったのを思い出した。聞いてみたくなった。

 「そう言えば、仕事部屋にギターケースがあったけれど、弾くんですか?」

 赤嶺は素直に言った。 「ええ、クラッシックギターです。幼い頃からやっていました。でも、山仕事をして、指の関節が固くなったので、最近はさっぱりで・・・」

 赤嶺は隣の部屋に取りに行った。敏子は驚きを持って赤嶺を待った。団塊世代の人達は、結構ギターを弾く人が多いと聞いていたが、クラッシックギターを弾く人は初めてだった。

 赤嶺はギターを持って来たが、音楽番組に合わせて弾くほど野暮ではない。敏子に現物を見せるだけという素振りで、番組に注意を注いだ。すると、敏子はギターを抱え、チューニングを始めた。赤嶺は驚いた。

 「ギターをやるんですか?」 「コードを押さえるだけです」テレビを見ながら言った。「この人の曲を弾きたくて練習したんです。娘と一緒に練習したんですよ。でも、クラッシックギターはネックが広くて難しい」

 赤嶺がギターを弾くことは無かった。敏子の優しい眼差しに癒され、ただ敏子の発する言葉をそよ風の如く楽しんでいた。時間は、敏子の話し声が安らぎとなり、瞬く間に過ぎて行く。

 敏子は、赤嶺の温かな対応に気を許し、時間を忘れ、いつまでも尽きることがなく、話題を絞り出すことができた。

 敏子にしても、初めてストレスを感じることのない男性との会話に、心が解放された安らぎを味わっていた。結婚生活は、夫の浮気続きに地獄の連続だった。子育ては、親の助けを借りながらも、いつも、親の愚痴に晒されていた。子供に手が掛からなくなっても、教育費はかさばる一方だ。

 敏子は、初めて、心からの安らぎを得た気分になった。赤嶺は、別段、何もしない。ただそこに存在し、何もせずとも広い心で包み込んでくれる。ログハウスの薪ストーブの温もりで、異空間に漂うような安らかな雰囲気を味わっていた。

 言葉は要らなかった。自然の成り行きで、敏子はその夜、赤嶺と同じ時を過ごした。赤嶺は、素直に、敏子の温もりを求めた。六十年生きて、初めて自分が無条件で包みこまれる温もりの心地よさを味わっていた。

 いつしか、静かに降り続いた冷たい雨はみぞれへとなり、次第に本格的な雪となっていた。光の無い山の中でも、雪明りに浮かび上がるログハウスの庭が美しい。ただ、草を短く刈られただけの庭でも、真っ白な雪に覆われると、雲の上に浮かぶような静寂と幻想的な心地よさを醸し出す。

 敏子は、一糸まとわぬ姿で、カーテンの隙間から外の静けさを味わっていた。赤嶺は、薪ストーブに薪をくべ、薪の燃える灯りに照らされた敏子の裸像を眺めていた。思わず口に出た。

 「美しい・・・」 とても、大きな子供がいるとは思えなかった。スレンダーで引き締まった敏子の後ろ姿に見とれていた。

 敏子は、暗い世界に、薪の燃えるほのかな灯りが揺らめいているのに気が付いた。

 「えっ、恥ずかしい」 思わず赤嶺の胸に飛び込んだ。 翌朝、赤嶺はいつもより遅い時間に目覚めた。と言っても、ようやく明るさが蘇ってきた六時過ぎ、赤嶺は、横に居る敏子に気遣い、静かにベッドを後にした。

 普段は、朝四時に目覚め、ゆっくりと朝食を取り、日の出と共に仕事に取り掛かれるように家を出る習慣になっていた。しかし、今日は敏子が帰宅しなければならない。積雪が心配だった。静かに外に出てみた。さほど積雪は深くない。風が無かったおかげで、吹き溜まりも無い。五㎝ほどの積雪に足を進めた。

 敏子の車のタイヤは、既に冬タイヤに変えられていた。気温はマイナスだが、雪のお陰で地面は凍っていなかった。しかし、舗装道路の様子がつかめない。赤嶺は軽トラに乗り込み、国道391号線まで行ってみることにした。国道は、このような道路状況になった時、除雪して融雪剤を撒く。心配無いはずだ。

 国道に向かう間、赤嶺は、昨夜の敏子の温もりを思い出していた。還暦を過ぎて、こんなに心がときめく時間を過ごすとは夢にも思わなかった。昔なら、どんな心境に支配されただろう?今は、純粋にこの充実した心境を受け入れることができる。朝ぼらけの中、車窓に広がる塘路湖を横目に見ながら、自分を生まれ変わらせてくれたカムイモシリ(神々の国)に感謝する自分がそこにいた。

 家に戻ると、換気扇を通して、外まで台所のいい匂いが漂っていた。時間を見るとすでに七時になろうとしている。

 慌てて家に入る。敏子が会社の始業に間に合わせるのに、一時間以上の時間が必要だ。台所では、敏子が朝食を作っていた。戻った赤嶺を確認して言った。

 「おはようございます。道具が掛かっていたので、仕事ではないだろうなと思って・・・。朝食の準備はもうすぐできます」

 赤嶺は焦った。 「会社に間に合わないですよ。もう出なければ・・・」

 敏子はにこやかに答えた。 「部長から、今日は昼からでいいと電話がありました。雪で交通事情が悪いということで・・・。釧路市内は雪が多かったのかしら?」

 赤嶺は、柴田の魂胆を見抜いた。苦笑いするしかない。敏子に言った。

 「私も、今日は休むことにします。新雪は危ない。特に、地面が凍る前は・・・。初積雪はヒグマも神経質になるんですよ。昨日持って来た書類を精査することにします」

 二人は、いつもより遅い朝食が並んだテーブルを挟んで、温かな時間を過ごした。窓の外は何の痕跡も無い白い無垢の世界だ。日に当たり、世界が輝いて見える。

 敏子は、久しぶりに夫婦愛という温もりを噛みしめている。赤嶺は、カムイモシリへの感謝を噛みしめている。二人の安らぎの時が永遠に続くかのような長い朝食を楽しんだ。

続く(次回更新:10月6日火曜日)


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