カムイモシリ

カムイモシリ 第十三回

和田山 明彦 作(釧路管内標茶町在住)

 年の瀬も迫るクリスマスイブ、天気予報は爆弾低気圧が塘路を襲うという。その日、晴れ間は少なかったが、穏やかに朝を迎えた。冬、晴れわたる朝は放射冷却により気温がグンと下がる。今日は、雲が多く、しかも、西から低気圧が近づく。気温はさほど下がらなかった。天気予報で昼から荒れることを確認して山に向かった。これからの年末は、段取りをその日の内に完結しなければならない。

 山に入ると、動物達の動きがいつもと違う。普段より、ソワソワ感が増している。赤嶺は、その様子に気付く境地に達していたし、その理由も理解できた。天候が荒れる前はいつもそうだ。しかも、今日のソワソワ感を見れば、荒れ具合はすさまじくなる。天気予報でも、低気圧がオホーツクに抜けると、気圧が急激に下がり、いわゆる爆弾低気圧になることを伝えていた。

 赤嶺は、動物達の行動で天気予報の精度を確認した。時には、科学的な確率計算に基づく天気予報より、カムイモシリの住人による本能的行動の方が勝る時がある。赤嶺は、まだモシリの住人達から教わることしかできない。どうしたら、彼等と同じ感性を身に付けることができるのか? 大きな野望とさえ感じさせられる課題だった。

 昨日、半端にしていた仕事を片付けて、早々に帰宅することにした。このような日は、じっと住処に籠るのがカムイモシリの住人に課せられた掟だ。

 家に帰り、吹雪による停電に備え、予備の明かりを用意した。薪も多めに室内に用意した。パソコンも、停電により作業途中のデータが消える恐れがある。プログラミング作業も、ある意味、都合よく休みにした。食事はストーブを利用した煮込み料理だ。次第に風が強くなってきた。

 赤嶺は、この地に来た頃、このように吹雪になると、動物達の置かれる境遇を想像し、同情して憐れんでいた。しかし、彼等の対処法は万全だ。リスやエゾモモンガのように、樹木に開けられた穴にもぐる動物の環境を安住に教えてもらったことがある。また、自分でも確認したこともある。見るからに快適そうな住居だった。

 鹿など、風雨に晒されるしか術(すべ)のない動物は、身体自体が対応している。風を除け、丸くうずくまれば、風の影響は受けず、しかも、天候のせいで危険な敵が近づくこともない。今日のような吹雪を自然の試練と感じているのは人間だけなのかもしれない。

 やはり、停電になった。どこかで、電線に木が倒れたのか? なかなか回復しない。復旧工事は時を選ばない。工事関係者には頭が下がる。この猛吹雪の中、必死に復旧工事に励んでいる。 

 ろうそくと、薪ストーブの炎の揺らめきが怪しく家中に漂い、幻想的な世界に紛れ込んだような感覚になる。ログの凹凸が強調され、おとぎの国に紛れ込んだと言うのがふさわしいかもしれない。窓に打ち付ける雪、外の荒れ狂う空気の渦との対比は、余計に時間の経過を緩慢に感じさせ、いつまでも続いてもらいたいとの思いにも駆られた。

 数年前までは、このようなとき、めぐみや子供達の姿を思い返していた。ちょうど美沙が結婚して孫が産まれ、赤嶺はおじいちゃんになった頃だ。しかし、その時は、離婚が成立していたため、赤嶺は孫との面会を遠慮していた。離婚後も、めぐみや子供達とはメールなどのやり取りで関係は良好に保っていた。人生に於ける価値観が変わってしまった赤嶺は、遠くで見守るだけで満足していた。もちろん、めぐみのおかげで二人の娘たちは幸せな生活を送ることができている。めぐみに感謝しながらも赤嶺がしゃしゃり出る必要はない。

 このような物思いに耽(ふけ)るとき、ネガティブに陥る傾向にあった若い頃からは、今の姿は想像できない。今の赤嶺は常に安定している。ネガティブもポジティブもない。安らかに物思いを楽しむ境地になっていた。

 今年からは、安住に指摘されたカムイモシリに居住するにあたり、持たなければならない恐怖心の正体を解明しなければと考えた。そこには、当然、敏子との関係性も関わっている。確かに敏子の存在が赤嶺に恐怖心を認識させた。しかし、めぐみと別れる前も、家族を愛する気持ちは同じだったはずだ。どこが違うのか? 

 台所に立ち、食事の用意でもしようと食器を出していると、窓の外、遥か遠くで灯りが揺らめいている。庄司の牛舎のあたりだ。赤嶺はすぐに気が付いた。停電は、闇と静寂を招くだけではない。餌を配合したり給餌したり、牛舎を管理するのに・・・、そして、何より、搾乳するにも電気が必要だ。とっくに搾乳時間は過ぎている。発電機を準備して、これから搾乳するようだ。餌やりなども重ねて作業しなければならない。以前も、庄司から手伝いを頼まれたことがある。赤嶺は作業服に着替え、庄司の牛舎に向かうことにした。

 猛吹雪の渦は、ヘッドライトの灯りを拡散してしまう。いわゆるホワイトアウトだ。軽トラは四駆だ。このような日は、四駆でなければ太刀打ちできない。慎重に、且つ、大胆に車を進めるのが積雪状態の道路を走るコツだ。庄司の牛舎に辿り着いた。

 「庄司さん! 手伝いますか?」

 赤嶺は、時おり、庄司の手伝いをしていたので、勝手は心得ている。庄司は搾乳パーラーに居た。作業員二人と、三人体制で搾乳を始めた所だった。普段は、ロボット化された設備で、一人でもこなせるのだが、今日は、遅れを取り戻すために三人でフル稼働だ。庄司は、大声で返事をした。

 「おおっ、助かった。息子が餌やりの準備をしているけれど、育成牛が手付かずなんだ。任せていいか?」

 子牛の世話は、奥さんとお嫁さんの二人で作業しているようだ。子牛の世話は、一頭ずつの手作業が基本だ。明かりを持つ人手が必要なのだから当然だ。赤嶺は、育成牛舎に向かった。昼間のうちに、清掃は済ませているようだ。以前、教えてもらった段取りで、機械を使い、給餌機に餌を準備して動かした。いつもは、搾乳前の仕事だが、停電のため、発電機の手配で手が回らなかったのだろう。若牛は、我先に餌に飛びついてくる。次は、乾草の準備だ。牛は夜も活動している。あの体を維持するために二四時間腹を満たす必要がある。休んでいると思われる時も、反芻(はんすう)で絶えず口を動かしている。餌に夢中になっている若牛の後ろで、乾草の準備を小型の重機を動かし済ませることができた。重機の明かりを頼りの仕事だが、赤嶺は、山仕事のために大型特殊の免許を取っていた。機械の扱いは慣れている。 

 作業を終わらせ、ヘッドライトに照らされた若牛を眺めながら安堵していると、奥さんとお嫁さんがやって来た。

 「あらぁ、赤嶺さんだったの。機械が動いているから、誰かが手伝いに来てくれたとは思っていたけれど・・・。助かりました」

 赤嶺は、言った。

 「ここは、終わりましたよ。あとは、搾乳して、親牛に給餌して終わりですね」

 「息子が餌をやるので、搾乳だけだと、あと一時間もかからないでしょう。どうぞ家で休んでください」

 赤嶺は遠慮することにする。

 「いえいえ、雪で帰れなくなったら大変なので、これで帰ります」

 また、用心深く家路についた。一キロにも満たない道のりだが、吹き溜まりに突っ込んだら元も子もない。数年前、ホワイトアウトの中、慣れたはずの家路を辿りきれず、家から逆方向の畑の中で遭難した事故があった。方向感覚をも狂わす吹雪の恐ろしさだ。

 薪ストーブで暖を取りながら思いを巡らした。東京での生活から、仙人のような生活をすると仲間に言いふらし、四十過ぎにして山の仕事に転職した。しかも、今日のように、酪農の手伝いを難なくこなすこともできるようになった。自然の成り行きとはとても思えない。何か、必然と思える大きな力に導かれたような感覚に浸っていた。

 その導きの主は、明らかにカムイモシリに存在する。赤嶺は、昔、人とのかかわりの中に自分の優位性を気にする意識に支配されていた。しかし、塘路で生活するうちに、カムイモシリの中では己の存在に優劣を意識すること自体が無意味であることに気付かされていた。意識すべきは『和』の中に存在することだけだ。

 赤嶺は、着替えた作業衣を洗濯機の中に入れ、ふたを閉めた。餌のサイレージの匂いが付いた。赤嶺は、庄司との付き合いでサイレージの匂いは気にならなくなっていたが、敏子は気にするかもしれない。電気が通じ次第洗うことにする。

 『匂い』。赤嶺は、サイレージの匂いが付いた作業衣を、洗濯機に放り込んだ時に気付いた。なぜ、めぐみや子供達が、愛する家族として存在していた時に、恐怖心を感じることができなかったのか? 敏子とどう違うのか? それは、『匂い』だ。

 めぐみ達には、明らかに東京の匂いがする。愛する家族は、東京の香りを塘路のログハウスに運んでくれた。夏休みの慣例行事として、ログハウスの庭でバーベキューパーティーを催していたが、めぐみ達が来ると、明らかに、家の空気が変わった。赤嶺は、その香りを懐かしさと共に味わうことに喜びを感じたが、その時間だけは、カムイモシリから離れていたのかもしれない。

 匂いは、五感の中でも一番影響力が強い。記憶の中でも一番深く刻み込まれる。東京のマンションで生活していたときの匂いをめぐみ達は振りまいていた。赤嶺も、めぐみ達にその香りを持ち込むことを望んでいた。しかし、カムイモシリと無縁の東京の香りは、当然、塘路には馴染まない。いくら、めぐみを愛しても、カムイモシリがその愛を理解してくれなかったのだろうか? それとも、自分自身が・・・。

 赤嶺は、めぐみから離婚を切り出された時も、さほど衝撃を受けなかった。何気に印鑑を押せたのも、その辺が関係していたのかもしれない。

 一方、敏子は違った。元々、赤嶺が所属していた林業会社の社員というだけではない。赤嶺が山の中で生活する姿を自然と受け入れてくれる。敏子は、カムイモシリから受け入れられる気質を元々身に付けていたということだろう。

 結局、赤嶺は恐怖の正体をつかめない。ただ、恐怖心は、決してネガティブに感じる必要はない。むしろ、希望につながる。

 その点、昔感じていた恐怖とはまったく異質だ。昔感じていた恐怖は、無知が要因だった。無知から生じる不安が姿を変えて振りかかる恐怖だ。

 赤嶺は、安住に指摘されてから、恐怖心を抱いても決して内に秘めず、生活の中に存在する普通の心理状態と理解することにした。その開き直りとも思える考えは、赤嶺にさらなる心境の変化をもたらした。

 カムイモシリの住人とは、今まで、自分と向き合う相手という一人称と二人称の関係性を拭いきれなかった。しかし、赤嶺は、自分も含め、すべての生物や環境を『私達』という一人称でまとめる思いが強くなった。当然、その中には敏子や娘の奈美も含まれる。というより、めぐみや娘達を含め、自分とかかわりのある人達すべてに対象を広げても不自然ではないという思いが生まれていた。

 赤嶺は、社会的遅効症と自己診断していた自分が嘘のように会話を苦にしなくなったことに気が付いていた。もちろん、敏子や庄司のように、気さくに寄り添ってくれる人達のおかげでもあるが、自分の心境自体が変化したことが大きな要因ではないかと感じていた。

 安住が言ったように、恐怖は、対象となるもの、それが、生き物なのか現象なのか、または、自分自身の内面なのかはっきりしないが、その対象となるものと表裏一体となることで産まれる。つまり、対峙するのか、内に現われるのか、その現象はまちまちだが、その対象物と運命を共有しなければ恐怖心は生まれてこない。つまり、後退するのではなく、前進しなければ生まれてこないということだ。前進は希望につながる

続く(次回更新:12月1日火曜日)


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