カムイモシリ

カムイモシリ 第十八回

和田山 明彦 作(釧路管内標茶町在住)

 釧路に戻った赤嶺は、空港の外気に身震いした。さすがに沖縄の気温に馴染(なじ)んだ体には真冬日の冷気の厳しさが身に染みる。駐車場で待っている軽トラに小走りで飛び乗った。車に置いている防寒着を車の中で苦労して着込んだ。外で着込めば楽なのだが、外気からできるだけ離れたい。先が思いやられる。

 ログハウスは、凍り付いていた。敏子が水道管の破裂がないか確認に来てくれているようだ。薪ストーブが燃やされた痕跡がうかがえる。防寒着を着たまま、ストーブに火を点けた。部屋が温まるまで、防寒着を手放せない。

 沖縄から持ち帰った亡き父親と母親が笑う姿の写真をカップボードの上に飾った。病室にいる父親との一コマだ。兄が撮影した、まだ、父が元気な表情を維持できたころの姿だ。 

 めぐみの新しい家族の写真ももらって来た。詩織の七五三のときに撮影したものだ。少し前の写真だが、矢野を含め、全員揃っての写真はその時が最後と言われれば仕方がない。 

 もとから飾っていた娘たちの写真も十年以上前のものだ。新しいコレクションに満足して、しばし、眺めていた。

 部屋が温まると、食事の用意だ。その前に、水回りの回復作業をしなければならない。給湯器がネックだ。取扱説明書を取り出し、眺めながら作業を続けた。うっかりすると、部屋中水浸しになる。帰って来て早々の大仕事はご免だ。

 携帯に着信が入った。敏子からだ。

 「お帰りなさい。本当は、部屋を暖めておきたかったけれど、連絡が急なんですもの・・・。先日の日曜日に、食事の用意をしておいたの。冷蔵庫に入っているから、温めて食べてね」

 「ありがとう。お土産を買って来たので、週末にでも来てほしい。会社には、明日、顔を出すけれど、そこで、奈美さんのお土産を渡すわけにはいかないものね」

 仕事の合間に電話してくれたみたいだ。長電話することもなく、携帯を置いた。水の確認を終えて、冷蔵庫の中を見た。なんてことだ。どうすれば一人でこんなにたくさんの量を片付けられるというのだ? 敏子の思いやりを噛みしめながら、とりあえず、一食分を用意することにした。

 日が暮れるまで、少し時間がある。山に出かけ、途中で投げ出した山の様子を見に出かけた。留守の間、十㎝ほど雪が降ったようだ。父の葬儀の日、寒波のニュースが流れていた。少し心配したが、道東の太平洋岸は雪が少ない。ここでは、寒波がもたらすのは、雪ではなく、限りなく乾燥した冷気の塊だ。

 いつもは、クリスマスの時期に解禁となる塘路湖の氷上でのワカサギ釣りも、今年は暖気の訪れで、一月近く遅れていた。沖縄に発つときは、まだ、解禁の基準に達していなかったが、ようやく、色鮮やかなテントが氷上に乱立するようになっていた。

 テントの賑わいを横目に見ながら、山の現場に辿り着いた。除雪せずとも、四駆の軽トラは、問題なく走り切った。

 尾根を一つ越えた所が現場だ。パウダースノーの下は、暖気で一度緩み、再びの寒気で堅く凍てついた雪の層がしっかりと体重を支えてくれる。長靴のままでも楽に歩を進めることができた。

 カラマツの林の処理が、始めたばかりというところでの中断だったが、残された処理が綺麗に済まされていることが分かった。釧路林業の柴田には、カノジョの住処を確認したことを知らせている。カノジョは、もう一つ尾根を越えなければ出会うことはない。

 札幌に出掛ける前に、図面で作業状況とカノジョの住処の場所をファックスしておいた。ヒグマの状況に神経質になっていた柴田を安心させる意味も含めての気遣いだったが、おそらく、安全が確認されたとして、休みが長引きそうな赤嶺に変わり、釧路造林の若い衆に残りの作業を続けさせたのであろう。ここでの作業は、間伐の作業と運び出しだけとなった。

 赤嶺は、どこか気が抜けて、しばらく佇(たたず)んでしまった。もう、カノジョの穴を見ることも無くなるのか? 歩みを進め、先の尾根まで行くことにした。カノジョに別れを告げるために・・・。

 例の、エゾモモンガの木の下に着いた。固い雪が続いたせいか、巣の清掃後のごみは多かった。残されたゴミの様子から、ここのモモンガも身籠っているようだ。この春は、子育ての姿を見ることができるだろう。

 少し、尾根伝いに移動して、カノジョの穴を確認した。今年は、例年より積雪が少ない。雪が引き締まり、以前より、入り口が広めに確認できた。もう少し、積雪が欲しいところだ。冷気を防ぐには、もう少し入り口が狭まった方が良いのではと思った。

 振り返ると、カラマツ林が見下ろせる。間伐の作業手段を考えた。重機を最小限に抑え、塘路湖側から進めれば、ここのモモンガも、カノジョの越冬にも影響はないだろう。明日は、釧路林業で手順を決めることにする。

 自宅に戻る途中、ちょうど、国道に出る百mほど手前で、オオワシやカラスが獲物に群がっている現場を目にした。命のやり取りは、日常の出来事だ。しかし、今回は父親の死の直後ということもあり、確認に軽トラを止めた。日陰になる所で、思ったより雪が深かった。ハンターのマナー違反ではとの思いを抱きながら近付いた。タヌキだった。どうやら自然死のようだ。

 ここ数年、タヌキが目に付くようになった。昔から、エゾタヌキとして、北海道の河川や湿地の近くに分布していたのだが、道路で車に引かれたり、人里に現われたり、道東では目にする機会が多くなった。キタキツネは、街中でも相変わらずうろついているのだが、二十年間山仕事をしていて、タヌキを目にするのはここ数年増えてきた。数が増えていることは確かだろうが、その理由は分からない。

 父親の死を迎え、命のつながりをより強く感じる。しばし、黙祷してその場を後にした。雪が積もると、法面の芝を求め、シカが道路際に集まってくる。当然、彼等もカムイモシリの一員だ。命のつながりの一員でもあるが、これだけ数が多くなると、カムイモシリの法則に則(のっと)った命のつながりは難しい。鹿の増殖も人間の驕(おご)りのせいだ。繁栄とは言い難い鹿の大きな群れも、結局は人間の驕りの犠牲の姿ということだ。

 ハンターにより、適切な数になるように調整する必要もあるし、なにより、車や列車による事故死が多発する。人間の驕りによる文明と、カムイモシリの生業の悲しい交差点という決まり文句が、つい、口に出る。  

 夕日が湿原に沈むころ、赤嶺は安住の家に寄ることにした。車には、お土産として、泡盛の古酒を積んでいる。庄司にも違う銘柄の古酒を求めてきたが、味で判断することのできない赤嶺は、値段で決めるしかなかった。高級と説明された物を選んだが、本人の味見を確認するまで、味の真相は不明だ。

 「ただいま戻りました」

 明るい表情で訪れた赤嶺を見て、安住が面食らったような表情で言った。

 「やあ・・・。お帰り。今回は大変だったな。久しぶりに帰ったんだから、もう少しゆっくりしてくればよかっただろう? お母さんとも久しぶりだろう?」

 「あまりのんびりしていたら、冬の道東に帰ってくることができなくなりますよ。今朝、向こうを立つときは、十二℃ですよ。もちろんプラスです。それでも、沖縄の人は、今日は寒いとさえ言っていましたよ」

 早速お土産を披露した。安住は好物の出現に顔が緩む。しかし、親の葬儀という里帰りの理由を忘れたわけではない。

 「お父さんは残念だったな。元気の内に会ってみたかった。お母さんはどうだい? 元気でいたかい?」

 「実は、めぐみも家族全員で来てくれました。実家とは、別れた後も連絡を取っていたらしく、母にもわだかまりがないので、喜んでくれました。もちろん、長年連れ添った父が居なくなったんです。寂しいに違いないことは当然でしょうが、兄とも約束してきました。夏には、みんなを塘路に招待しますよ」

 「そうか・・・、それは良かった。俺はてっきり、赤ちゃんが、ご無沙汰していたせいで、何か言われ、落ち込んで帰ってくると思った」

 安住は、インターネットの世界には疎(うと)い。モニター画面で語り合う状況を理解できないだろう。でも、安住の思いやりを素直に受け取った。

 「父は、今年、米寿を迎える歳でした。要は、順番です。順番にこの世から離れて行くのが理想の生き様ということではないですか? 親父は、幸せな人生を送ることができたと思います」

 「そういうことだな・・・。俺もそろそろ終活を始めるか?」

 横で聞いていた安住の妻節子が言った。

 「終活の準備をするほどの財産も無いのに?」

 和みの中で、節子は、いつものように夕食の準備に取り掛かろうとした。赤嶺は慌てて食事を辞退した。いつもなら、遠慮無しにご馳走になるのだが、今日は、庄司のところにも行かなければならない。山の仕事は、会社の配慮でケリがついていたが、明日は釧路林業に出掛けなければならない。今夜はパソコンに向かい、半端にしていたプログラミングを確認するだけでも済ませたかった。

 釧路林業では、敏子が笑顔で迎い入れてくれた。

 「お帰りなさい。沖縄から来ると、寒いでしょ?」

 「昨日、山を見に行って、すっかり感覚が元に戻ったよ」部長の柴田のところに進み、お土産を取り出した。「申し訳ありませんでした。これを皆さんで・・・。ところで、昨日、山を見てきました。終わらせて下さったのですね? 助かりました」

 「図面を送ってもらって、ヒグマに怯(おび)える心配がないことが分かったからね。手の空いてる連中で終わらせたよ。それでだ」その図面を開いた。「間伐を明日から始めようと思う。小型のブルを用意するよ。それで材を林道まで運ぼう。その方がいいだろう?でっかい機械は早いかもしれないが、やかましいからな」

 「そうですね。出来るだけ、静かに終わらせたい。機械はできるだけ少ない方がいいですね」

 打ち合わせは、順調に進んだ。最後に、赤嶺が携わったプログラムの様子を確認した。返事は敏子だ。

 「最高です。会計事務所のソフトとの相性もいいみたいで、会計士からも感謝されてましたよ」

 「良かった。そこに苦労したんです」また、柴田に向かい言った。「それでは、後で請求書を送ります。目ん玉が飛び出そうな・・・」

 柴田は、冗談を言う赤嶺を初めて見た。みんな笑顔だ。柴田は、古関敏子と赤嶺が上手くいっていることを実感した。

 帰り際、敏子がそっと耳打ちした。

 「明後日の土曜日、昼から行くね」

 「間伐で山に居るかもしれないけど、いつものように鍵は開いてるよ」

 瞬時のひそひそ話だ。

 早めに山に入った。釧路林業から、五人ほど作業員が来るらしい。その内二人は、ブルを担当して間伐材を林道まで運ぶ作業に従事する。実質、三人での伐採作業だ。赤嶺は、作業の指揮をということだったが、チェーンソーを持ち出し、いっしょに伐採することにした。人が揃う前に、作業を始めた。もちろん、ここで冬を越すために籠る動物達を思い、少しでも音に慣れてもらいたいがためだ。

 赤嶺は、カノジョの穴から一番近くのカラマツの作業から取り掛かった。小一時間過ぎた頃、作業員が現れた。驚いたことに、柴田も道具を揃えてやって来た。しかも、人数は、倍の十人にもなる。柴田が、作業員に号令を出し、作業が始まった。

 唖然とする赤嶺のところに、柴田が近づいて来た。

 「人をかき集めてきたぞ。ヒグマ達のために早く静かな環境に戻したいんだろう? 明日までに済ませるぞ。林道脇に材を置いとけば、トラックが空けば、いつでも搬送できる。そこまで済まそう」

 二人一組で、四方から攻めた。印を付けた対象のカラマツが次々と倒れていく。一人は、枝を払い、基準の長さに揃えていく。赤嶺は、柴田と組んで作業を進めた。柴田はベテランの作業員を集めてくれた。白糠の山根造林時代からの仲間もいた。誰の指示も必要としない。瞬く間に片付いていく。

 翌日には、赤嶺が当初予定していた三日間という時間を裏切り、ベテラン作業員の大量導入で、昼過ぎのまだ日が高いうちにすっかり片付いた。元の静けさを取り戻し、綺麗に整理された山が広がっている。

 赤嶺は、最後に、例のモモンガの住処とカノジョの穴を確認に出掛けた。柴田は、興味はあるがヒグマの穴を見に行くほどの勇気は持ち合わせていない。尾根に向かい、斜面を登る赤嶺を見送ることで我慢することにした。

 モモンガは相変わらず昼間は静かに休んでいるようだ。三日前に確認した時より、住処の下は、木くずやごみで汚れが増えている。カノジョの穴の入り口も、雪が乱れた形跡はない。そろそろ、出産の時期に入る。赤嶺は、静かな環境を整えることができて安堵した。

 林道に戻ると、柴田が一服しながら待っていた。

 「さて、次の山だが、摩周の麓になる。週明けにでも会社に来てくれ。図面を渡すよ。ただ、それほど急ぎの仕事でもないので、しばらく休んだらどうだ? ここの作業も予定よりずいぶん早く済んだ。余裕があるよ」

 赤嶺には、自宅で何もせず、のんびりという習慣はない。プログラミングも、矢野の気遣いで予定していた仕事をキャンセルしてくれた。まだ、二~三あることはあるが、締め切りは当分先だ。しかも、大まかな設計は済んでいる。

 このような時は、鹿でも撃ちにいくのだが、葬式から帰って来てすぐの殺生というのも気が引ける。やはり、山に籠るのが一番だと感じた。

 まだ、日が高い時間に家路についた。今日は土曜日だ。敏子の車があった。心が疼いた。しかし、奈美ちゃんも来てるかもしれない。冷静を装い、家に入った。

 「ただいま~」

 思わず自分の家に帰ったのに、自然と『ただいま~』の言葉が出てしまった。違和感がない。

 奥から敏子が出迎えてくれた。

 「部長から、人数を増やすと聞いていたから、今日は、早く帰ってくるかなと思っていたの。やはり、早かったのね?」

 「あれ? 一人かい? 奈美ちゃんは?」

 「おばあちゃんと帯広に行ったわ。明日は迎えに行かなきゃ」

 敏子は、着替えする赤嶺に、後ろから抱きついてきた。奈美ちゃんは気を使ってくれたのか? 幸せな瞬間だ。しかし、敏子の胸中は複雑だった。

 「写真を見たわ。奥さん、綺麗な方ね。沖縄に来ていたの?」

 赤嶺は、振り返り、敏子を抱きしめた。

 「後ろに立っているのが、今の旦那さんだ。プログラミングの契約をしている会社の矢野君だ。孫の七五三の時だから、少し前の物になるかな?」

 「何か不思議な感じ。元妻の写真を・・・」

 言葉を閉じた。どこかに嫉妬する心があるようで、敏子は赤嶺に縋(すが)る手に力を込めた。赤嶺は、無責任にも敏子の気持ちを考えず、何気にめぐみの写真を飾ってしまったことを後悔した。しかし、矢野を含め、めぐみや娘たちの幸せを願う気持ちは捨てられない。

 赤嶺は、敏子に手を添えたまま、ソファーに場所を移し、胸の内を明かした。

 「彼とは・・・、矢野君とは古い付き合いでね。以前は家族ぐるみで付き合っていた。と言っても、矢野君は、ずうっと独身だったけれど・・・。僕が塘路に来て、めぐみには辛い思いをさせたと思う。別れた後も、親身に相談相手になってくれたし、僕にも、仕事の打ち合わせついでに、いろいろと話をしてくれた。結局は、僕もめぐみも彼に支えられていたということかな?」写真を眺め、隣の両親の写真にも視線を移した。「長女の美沙が橋渡しとなって、沖縄とのつなぎを維持してくれた。最初は、矢野君やめぐみも気まずかっただろうけど、いい関係を維持してくれていた。僕も、今回初めて知ったことだけれど・・・。だから、なんのわだかまりもなく、この写真を貰うことができたんだ」

 敏子は、少し安心したのだろう、腕を解いて、優しく赤嶺に寄り添って来た。赤嶺は、続けて敏子に話した。

 「実は、敏子のことも話した」敏子は驚いて赤嶺の顔を見た。「おふくろや、めぐみ達が、僕が一人寂しく塘路で朽ちて逝くのではと心配するもんで、思わず話してしまった。いいだろう?」

 敏子は、その意味合いを理解した。言葉は無い。思わず赤嶺に抱きついた。
 
 翌日、敏子は奈美ちゃんを迎えに帯広に向かった。道路は、舗装面が乾いている。安心して送り出した。見送りから家に入ると、敏子が台所どころか寝室まで片付けていた。普段は、起きたままの乱れたベッドが常だったが、ホテルのように綺麗にベッドメイクが施されていた。

 確かに、ログハウスは敏子の気配で装いが一変した。模様替えなどはしていない。元々、家財道具を片付けるほども無く、生活感に溢れてはいない。しかし、ログハウスのログ、一本一本に敏子の残り香が染み込んでいるような感覚に、赤嶺は安らぎを覚えた。

 沖縄から戻り、じたばたしていたせいで、家の周りの整理が滞っていた。雪も支障がないほどの積雪だが、除かなければ氷の世界になってしまう。冬はまだ続く。ホイールローダーも動かし、家の周りを整備しなければ・・・。

 何もすることがないことに苦痛を感じる。プログラミングは心に集中力が必要だ。敏子と共に、めぐみの写真を眺めたときから、なぜか、心が騒いだ。パソコンに向かう気が起きない。

 敏子は、明らかに、めぐみの写真に嫉妬していた。矢野との幸せそうな家族写真に赤嶺をかぶせていたのだろうか? それとも、敏子には幸せな家族写真は存在しない。矢野との信頼関係がめぐみへの想いのけじめになっていること自体、嫉妬の対象なのかもしれない。

 赤嶺は決断しなければならなかった。敏子と一緒になろう。奈美ちゃんが卒業する時に三人で記念写真を撮り、家族写真として飾ることにしよう。その次は、奈美ちゃんの成人式か・・・? 赤嶺は、パソコンの中に、日々感じた想いをしたためていた。今日は、その想いを入力することにする。

 月曜日、赤嶺は釧路林業に顔を出した。敏子はにこやかに赤嶺を迎えてくれる。明らかに、敏子のおかげで会社に顔を出す機会が増えているように感じる。柴田はそのような赤嶺を満足気に見ていた。

 「摩周のどの辺ですか?」

 無駄口は無用だ。

 「相変わらず素っ気ないな。これだよ」図面を示した。「美留和地区の山だ。農地に続いたところだから、そんなに広くない。カラマツ林の手入れということだね。その奥は、摩周湖につながる原生林だ。その際までの範囲だ」

 「明日から早速向かいますよ」

 「慌てなくていいよ。少しゆっくりしたらどうだ?」

 「体を動かしていないと、不安が募ります」

 笑顔で答えると、冗談だと理解してくれた。以前なら、本気で心配させてしまう。周りの対応が明らかに変化してきたと赤嶺自身が実感していた。

 摩周の現場は、塘路から四十㎞ほど北に位置している弟子屈町市街地をJR釧網線沿いに、さらに北に進む。

 摩周湖に向かう道路を通り過ぎて、美留和(びるわ)地区に入ると、一段と積雪が多くなった。ここからさらに北に進み、峠を越えると、網走市に至る。ここは、オホーツクの風が影響する地域だ。気温は完全に内陸型の気候で、放射冷却によるシバレは強烈だ。

 赤嶺は、早速仕事に取り掛かった。面積は大したことないが、雪が行動を阻害する。久しぶりに、冬の作業の厳しさを味わった。

 しばらく摩周の現場に通うことになるが、冬の日差しが短い時期の二時間の往復は厳しい。しかも、オホーツクの気候が影響する現場は、急な天候の異変が頻発する。中断を余儀なくされる現場は、モチベーションの維持が難しい。しかし、赤嶺は仕事を通じてのみカムイモシリとの会話を心掛けているわけではない。穏やかな天候の時も、荒れた天候の時も、カムイモシリの正体そのものは変わらない。吹雪いた時などは車に退避して体温の低下を防がなくてはならないが、ウィンドウ越しに眺める風の流れをカムイ達と一緒に眺めているという一体感を実感するのは、充実したひとときを赤嶺にもたらしてくれる。

 二月に入り、赤嶺は相変わらず摩周の現場に通っていた。天候に恵まれた時などは、現場を離れ、奥につながる森に足を運ぶ時間を取ることができる、ゆとりのある仕事だ。

 この日も、摩周の原生林まで足を運んでみることにした。スキー板は、雪深い現場にはいつも携帯するようにしている。より深くカムイモシリに浸るには、素晴らしい環境だ。

 ここでは、人の手が入らない太古からの生業(なりわい)を感じることができる。人里近くから姿を消した森の主、カムイチカプ(シマフクロウ)の生息も確認されている。

 なだらかな傾斜が、しだいにきつくなり、摩周の外輪に続いている。昔、摩周湖への道が整備される前、弟子屈の学校では、この獣道の様な道跡を摩周湖への遠足のルートとして利用していたと聞く。

 日が高くなり、カムイ達との会話を楽しみながら、今日は少し奥まで進んでみようと歩みを進めた時、携帯の振動が着信を知らせた。安住だ。今頃、何事かと訝(いぶか)しんで携帯を手にした。

 「赤ちゃんか? 大変な事が起きた。例のヒグマがまた人を殺(あや)めた。駆除しなければならないぞ。すぐに来てくれるか?」

 返事をするまで気が回らなかった。大急ぎで車に戻り、カノジョの住処に向かった。想像は、果てしなく可能性を広げる。穴に籠るカノジョが、どうして・・・? 状況が理解できないことに、苛立(いらだ)ちを覚えた。

 今日、あの現場では間伐材を運び出すことになっている。先日まで作業していた塘路湖の現場に向かった。

 間伐材を積み上げている所に、大勢の人がたむろしていた。警察官が作業員と話をしている。運び出しに来た人達だ。その運送会社の作業員は赤嶺の顔見知りだった。その脇に安住が居た。赤嶺を確認し近付いてきた。

 「その車に見覚えがないか?」材を集積しているところに、見覚えのあるピックアップが止めてある。例の、多摩ナンバーの車だ。「赤ちゃんが言っていた車だろ? ご遺体はもう搬送したよ。今、庄司達が熊の穴を調べている。」

 赤嶺はカノジョが気になった。

 「クマはどうなりました? 駆除するということは、まだ、生きているんですね?」

 「詳しくは庄司に聞いてくれ。もうすぐ、日が暮れる。周りを見るだけで、今日の追跡は無理だな」

 「今夜は、雪の予報です。足跡は消えてしまいますね」

 どこか、カノジョの生存に期待するような言い回しになってしまう。通用するのは安住にだけだ。

 「警察が、あの穴のことについて聞きたいそうだ。ちょっと待ってもらえるか?」

 赤嶺は、現場からまっすぐに来たので、ライフルは所持していない。どっちみち、今日は、山に入ることはできない。運送会社の若いのが傍に居たので、詳細を聞こうと近寄った。警察の相手をしてるのは、赤嶺も知っている運送会社の現場責任者だ。

 「どういうことだ?」

 若い作業員は、赤嶺のことを知らない。怪訝な顔で答えた。

 「ここに来たら、あの車が邪魔で警察に連絡しただけです。そうしたら、昨日、捜索願いが出ていたらしく、大騒ぎですよ」

 聴取が終わったようだ。安住が警官に話して、赤嶺のところに連れて来た。

 「申し訳ありません。少しお話を・・・」メモをするようだ。ページを変えて質問してきた。「最近、クマの穴を確認していたそうで・・・。その時は、どうでしたか?」

 「二週間ほど前に確認しています。穴の存在も、林業会社や、猟友会にも報告しています。その時は静かに籠っていました。雪の様子から、出入りした痕跡はありませんでした」

 「そう言えば、あのハンターは、赤嶺さんが通報していた方ですね? 確か十一月だったと思うのですが? 一度帰って、もう一度遠征してきたようです。穴の周辺は、随分と荒れているようで・・・」

 警察の話では、ハンターは東京で会社を経営していて、最近引退し、趣味の狩猟に励んでいたとのことだ。金はあるようで、カナダやアラスカなどでも狩猟の旅をしていたらしい。

 家族には日本で最強のヒグマを仕留めると吹聴して出かけていたらしいが、連絡が途絶えて、心配して通報したということだ。

 ここ数日、雪が降ることはなかった。四日前にうっすらと積もったのが最後だ。その後、山に入ったのだろう。足跡で、簡単に足取りを確認できたそうだ。しかし、どうして、クマに襲われなければならなかったのか? 赤嶺には理解できなかった。

 安住が電話を受けてから近寄って来た。

 「庄司に赤ちゃんが来たと言ったら、穴まで来てほしいと言っている。ライフルは俺が持っているから一緒に行こう」警官に向かい続けて言った。「穴の状況が分かったらしい。現場を保全しているから記録してほしいと言っている」

 警官は、熊の存在を確認していないため一瞬躊躇した。遺体収容も猟友会に頼むしかなかった。拳銃でヒグマと立ち向かうのは自殺行為に等しい。

 赤嶺はどういうことか理解できなかった。現場保全は当たり前だ。しかし、まずは、現場をみてもらいたいと言う。何か、良からぬ予感がした。

 「どういうことです?」

 安住も不思議がっていた。

 「分からん。とにかく、現場を見て欲しいと言うだけだ」

 尾根を二つ越え、穴の近くに辿り着いた。安住は年齢のせいか、歩調はゆっくりだ。安住のスピードに合わせて辿り着いた。庄司を筆頭に、猟友会の仲間が五人。あと、若い警官が二人いた。傍には、生まれたばかりの子熊が二頭横たわっている。手のひらに乗りそうな小さな体だった。赤嶺は、思わず言った。

 「なんてことだ!」

 安住も言葉にならないのか、狼狽(うろた)えている。庄司がおもむろに話し始めた。

 「子熊は穴の中に居た。生まれたばかりで、目も開いていない。ハンターは、五mほど下に居た。凍っていたから、二~三日前のことだ・・・」

 話すのが辛そうだ。赤嶺は、その話から、大体の状況が判断できた。しかし、庄司の言葉を待つことにする。

 静まり返った山間に、庄司の、細い話し声がかろうじて聞き取れた。

 「足跡は、出来るだけ乱れぬように注意している。だから、よく見てくれ。ハンターは、穴の中に向かって発砲している。自動装填のライフルだから、それは、薬莢(やっきょう)の位置で分かる。その射撃の時、子熊は悶える母親に押しつぶされたらしい。その後、親の逆襲で、ハンターは、あの場所まで飛ばされて死んだということだ。ハンターの首は折れ、顔はかみ砕かれていた。問題は、あっちの血痕だ。ずうと、山の奥に続いている。どう思う?」

 安住が、透かさず答えた。

 「かなりの出血だな?」

 赤嶺が続けた。

 「動脈を損傷している。助かりそうもない」

 しばし、沈黙が続いた。明かりを見ることも無く逝(い)ってしまった子熊に対して黙祷をする如く・・・。安住は、思わず帽子を外した。警官を含め、全員その行為に従った。

 安住は、猟友会の会長として決断しなければならなかった。

 「今日は、もうすぐ、日が暮れる。天候も崩れる。明日、天候の回復を待って、クマを追うぞ。手負いを放っておくわけにはいかない。いいな?」

 誰も、返事をしない。分かり切った決定事項だが、今回、クマの身の上に起こった出来事は、皆理解していた。

 翌日の朝、雪の降りは収まって来た。しかし、風がまだ収まらない。粉雪が風に押され、地表を這いずり回り、時おり竜の如く舞い上がる。山に入るのは、まだ早い。ホワイトアウトが襲って来る。

 赤嶺は、ライフルを手に、林道に車を止め待機していた。カノジョの身の上に起きた出来事を想像していると、助手席のドアを開けて安住が入って来た。

 「早いな。まだ、山には入れないぞ」

 想いは同じということだ。安住の心情を代弁するように言った。

 「カノジョの身の上を考えると居た堪れなくて・・・」

 「そうだな。初めての出産の時も人間に邪魔された。そのショックで、去年は出産できなかったのかな? 本来は、子別れを待っての繁殖だが、今年こそはと思っただろうな・・・」言葉が途切れた。

 しばらく、風に振り回される雪の舞踏を眺めていた。次第に雪雲は去り、青空が見え始め、地表の雪が舞うだけとなって来た。そろそろ、みんなが集合して来るだろう。安住は赤嶺に言った。

 「どのように、探索したらいいかな? やはり、三人ぐらいのグループを作り、手分けして探ることにするか? この新雪じゃ、足跡を追うということはできないからな。血痕が多いから、その辺を探りながらということかな?」

 駆除には、グループ行動が基本だ。手負いのクマとなれば、行動の予測が一段と困難になる。互いにカバーしながらの行動が基本だ。しかし、赤嶺には立ち寄りたい場所があった。カノジョのお気に入りの場所だ。血痕の道筋とは違う方角だったが、去年の暮、偶然に見つけたカノジョの憩いの場所だ。その場所を確認したかった。 

 カノジョと信頼関係が構築されている。一人で向かいたい。そこで、改めてカノジョとの別れを実感したかった。みんなが揃う前に、安住に言っておかなければと思う。

 「一か所、確認したい所があります。血痕が続く方角とは違うので、居るとは思えませんが、個人的に行ってみなければ、今回のけじめがつかないので・・・。一人で行かせてください」

 「本来は、許されないことだぞ。しかし、赤ちゃんなら、だめだと言っても、言うことを聞きそうもないな。ちなみに、何処だ?」

 「血痕の続く方角から、三時の方角に一㎞半ほど行ったところです。作業した現場から、塘路湖沿いに、もう少し奥に行ったところです。そこの窪地がカノジョのオアシスでした」

 「分かった。あのクマは、生きていたとしても、息も絶(た)え絶(だ)えだろう。もし、出くわしたら、きちっと苦しみから解放してやれ。いいな?」

 「みんなが来る前に出発します。その方が安住さんの立場が建つと思いますので」赤嶺は安住の反応を見、返事の間を与えなかった。「確認したら、南回りで戻ります。そうすれば、みんなと出くわすことも無いでしょう。」

 早速、出発することにした。装備は万全だ。ライフルを肩に、フルフェイスの帽子やゴーグルも用意してきた。安住は、車の外に出て、地吹雪が時おり湧き上がる斜面を進む赤嶺の後ろ姿を見送った。蛍光色の派手なヤッケは静かに山に入っていく。ホワイトアウトは、赤嶺の後ろ姿をかき消すように吹き荒れる。

 安住は、赤嶺の後ろ姿が、光に包まれているように感じた。オレンジの蛍光色に彩(いろど)られた猟友会のジャンパーのせいではない。確かにその光は、神々しく赤嶺の周りに漂っている。今、明らかに赤嶺はカムイモシリの一番神聖な世界に踏み込もうとしている。導かれた者だけが許される世界だ。

 安住は、思わず叫んだ。

 「だめだ! 引き返せ!」

 安住の、年老いた声は、風の叫びにかき消された。一瞬赤嶺は、振り返ったように見えた。しかし、次第に白い世界に消えていく。

 安住は、手を合わせ、見送るしかなかった。

 午前十時、山に入ると、予想より風の影響が強かった。ゴーグルを用意してきてよかった。風の強さに、匂いによる探索は困難となったが、赤嶺にとって、目指す地点は限られていた。カノジョに、待ちかまえて襲って来るほどの体力は残っていないはずだ。まずは、その地点を目指すことに集中した。時おりの突風で、ホワイトアウトに行動が阻害される。その時は、悠然と大気の流れを見守った。

 谷間に入った。風は上空に漂い、赤嶺のところまで舞い降りてこない。そうすると、日差しが暖かさを運んできた。エゾリスが、暖かい日差しを感じたのか、枝の上に姿を現している。少し汗ばんでくる。冬の山で汗は禁物だ。小まめに上着の脱着に気を付けなければならない。フェイスマスクを外し、ゴーグルも首にずらした。額にずらすのはだめだ。いざという時、頭の熱で曇ってしまう。

 一時間かけても五〇〇m進めただろうか? 今朝までの雪と、風の洗礼を受け、歩みがままならない。しかし、カムイモシリと一体となる感覚は、疲れを感じさせない。今、赤嶺はマタンキクル(狩人)になっていた。カムイモシリと一体となったマタンキクルだ。時間が許せば、どこまでも進めそうな感覚になる。今回は、キムンカムイ(ヒグマ)に立ち向かうマタンキクルではない。どちらかと言うと、カノジョを救う目的に近い。使命感に似た想いを胸に、赤嶺は進んだ。

 昼になり、歩きながらおにぎりを口にした。もうひと尾根越せば、目的地に辿り着く。しかし、作業していた時とは世界が違った。山の中では、わずかの積雪でも世界が変わる。カムイモシリの住民にとっては通常の変化だ。人間の無力さを改めて思い知らされた。

 高台に立ち、カノジョが戯れていた所を見下ろした。周りには、山ブドウやコクワの弦が茂っている。傍には、凍らない沢もあり、カノジョの理想的なオアシスであることが一目瞭然だ。中心が窪んでいるはずだが、谷間の雪のせいではっきりと判別できない。

 赤嶺はライフルを用意した。最初の弾を装填する。とりあえず、風下に回り込むように、ゆっくりと近付くことにした。

 願いは、居ないでくれだ。カノジョがこの地にテリトリーを築いたときからの生い立ちは承知している。あまりにも惨(むご)い生い立ちだ。最後の姿を平然と見つめる自信がない。しかし、心が通ったと信じてる赤嶺が、最後を看取らなければという思いにも駆られる。

 谷間の底に辿り着いた。慎重に風下から近付く。傍(はた)から見ると、窪地と思われるところに、小さな盛り上がりを確認した。昨夜から降り積もった雪に乱れはない。カノジョだとしても、すでに冷たくなっているのだろうか? 確認のため、より近付いた。窪地の淵まで来て、ようやく分かった。カノジョの背中だ。

 微(かす)かに、呼吸が認められる。生きている。しかし、後ろに立つ赤嶺に気付かない。浅く、苦し気に呼吸する音が風の音に紛れながらも聞こえる。安住の言葉を噛(か)みしめて、ライフルを構えた。しかし、トリガーを引くことができない。カノジョの顔を見なくては・・・。

 卑怯な行為と言う気遣いではない。最後にカノジョの目を見ながら別れたかった。

 回り込む気配を感じたのだろうか? 耳が力無く動く。赤嶺は、反応に動きを止め、しばらくして、また、移動を開始した。山ブドウの弦が動きを妨げる。遠回りして、カノジョの顔を正面に見ることができる所まで移動した。

 彼女の表情は、カムイモシリに君臨するキムンカムイ(ヒグマ)とは程遠い。口が力なく開き、舌がだらしなく垂れさがっている。目は、どこにも焦点が合わず、光沢を失い、空虚な空間を見つめている。耳だけが、赤嶺の存在を確認しているかのように方向を確定しているが、反応はそれだけだ。

 正面に移動して初めて気付いた。首の付け根が血で固まっている。しかし、頸動脈ではない。今まで苦しまなければならなかった理由は、そこだけの銃創とは思えなかった。ハンターのライフルは六発の弾丸が装填される仕様になっていたが、弾倉は空だった。狭い穴の中で弾から逃れる術(すべ)は無い。他にも銃弾が当たっているだろう。

 赤嶺はライフルを構えた。しかし、トリガーに力を伝えられない。安住の言う意味は理解できる。苦しみの時間を与えるのは気の毒だ。だが、赤嶺には違う想いも募る。まがりなりにもカノジョはキムンカムイだ。カムイモシリに君臨する誇りを最後の瞬間まで持たせてあげたい。止めを刺す行為は、その誇りを冒涜(ぼうとく)するような感覚にもなった。

 赤嶺はその場に立ちすくみ、カノジョを見守るしかなかった。カノジョの脳裏には、どのような思いが描かれているのだろう。三年前の初めての出産は、不可抗力とはいえ、人間に邪魔され、子供達は人間に連れ去られてしまった。翌年は、その子供に未練があったのか、オス熊を寄せ付けなかった。そして、今年、無礼なハンターにより、安息を約束されていた住処の中で、子供達を目の前で惨殺された。そして今、自身の命も絶えようとしている。

 カノジョから見れば、あのハンターも赤嶺も同じ人間だ。しかも、同じように、火の吹く鉄の筒を手にしている。赤嶺は、カノジョと心が通ったと感じたことは独りよがりにすぎないのではと思い始めた。ライフルを見つめ、そして、照準を解いた。あのハンターに変わり、無礼な行いを詫びる思いに駆られた。膝を折り、しゃがんで顔を近付けた。

 相変わらず、カノジョの呼吸は浅く早い。小一時間ほど見守っていた。夕方まで生きていることができるだろうか? カラスが上空を回っている。まだ生きているというのに・・・。最後の時を邪魔させたくない。赤嶺がいればカラスやキツネは近付かない。

 しばらく、赤嶺はその場を動くことができなかった。というより、動くことを許されないという想いだ。カムイモシリの仲間として、最後の時まで共に過ごさなければならない。その時まで、カノジョと共に過ごそうと思った。ライフルのトリガーから指を外した。撃つ機会を失った。

 日が傾いてきたのが日差しを感じる皮膚の位置で分かる。カノジョの呼吸はより浅く、より回数が少なくなってきた。赤嶺は、頬が涙で濡れるのを、冷気により感じさせられるまで気が付かなかった。思わず袖で涙をぬぐったその瞬間、カノジョは、大きく息を吸い、その刹那、手足を痙攣させながら力を振り絞り、赤嶺に覆いかぶさって来た。

 どの位、時間が過ぎただろう。赤嶺はおもむろに目を開いた。周りには花園が広がっている。温もりに包まれ、宙に漂うような安らぎを感じる。死んだのだろうか? ここは、黄泉の世界に違いない。しかし・・・。

 いや、まだ記憶を整理する意欲が残っている。間違いない。次第に、記憶が蘇って来た。すると、状況がおぼろげに確認できるようになってきた。

 カノジョは、王者の意地を最後に見せたということか? 気配のみを頼りに赤嶺に向かって来たのか? カノジョに攻撃手段はなかった。覆いかぶさるのがやっとだった。赤嶺は、態勢が悪かった。膝をつき、左腕で顔を覆っていた。右手は、ライフルで自由が利かなかった。

 すべての動きが阻害されている。感覚もない。頸椎がやられたのか? 温度の感覚も宙に浮く感覚も納得できる。ただ、匂いはなんだ? 花園の香りはどこからやってくる?

 カノジョは、赤嶺に覆いかぶさり、事切れていた。赤嶺はカノジョの最後の行動を考えた。赤嶺を敵として、執念の攻撃を仕掛けたのか? それとも、空しかった生涯に、悲しみのあまり縋りついてきたのか? もしそうなら、自分の状況は、態勢の悪さによる自己責任だ。当然、真相は判明できない。しかし、赤嶺は後者を信じた。カノジョが覆いかぶさる瞬間の姿は、神々しいほどの輝きを感じた。その気配に見惚れた自分がそこに居た。縋りつくカノジョを受け止めてあげたのだ。

 ライフルは発射できなかった。銃声による仲間の到着は望めない。安住にも、この位置の詳細は話していない。カノジョの最後の温もりで、体温の低下はある程度防げるが、如何せん、呼吸がままならない。顔はかろうじて外気に触れているが、カノジョの体重が肺を圧迫しているはずだ。首から下の感覚は消えているが、酸素不足の状況は、脳が感じている。

 脳が焼けつくような苦しさの中で、走馬灯のように過去の人生が蘇る。初恋の矢草典子との淡い恋心。めぐみとの出会いと結婚。美沙と沙理の誕生。ネガティブな想い出は消えていた。人生のほとんどが、優越感と劣等感の狭間で揺らいでいたはずなのだが・・・。

 カムイモシリが赤嶺を包んでいる。その包容力による幸福感にふさわしい情景だけが赤嶺の弱った脳裏に蘇る。

 鮮やかに浮かび上がる矢草典子、めぐみ、美沙、沙理、そして詩織の笑顔に、赤嶺は、死を覚悟した。人は、死の瞬間に過去の人生を瞬時に振り返ると言う。安住の豊かな笑顔、庄司の底抜けに明るい笑顔、最後に、恥じらいを見せる優し気な敏子の姿・・・。

 カムイモシリに庇護された者に、最後に従わなければならない宿命を迎い入れる瞬間が訪れた。

終わり


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