カムイモシリ

カムイモシリ 第七回

和田山 明彦 作(釧路管内標茶町在住)

 山に入ると、日の当たらない所には、まだ雪が残っていた。予報では一週間晴天が続く。十一月下旬になると、朝は放射冷却で気温はマイナス七℃を下回るようになってきたが、日中はプラス十℃にはなるだろう。この雪も次第に消えていく。

 前日の敏子との営みは、赤嶺の人生観に大きな区切りを刻み込むことになった。

 赤嶺は、めぐみと離婚したあと、この地に身をゆだねることでネガティブな思いから解放されたような気になっていた。

 めぐみは赤嶺の価値観を受け入れることはできなかったが、赤嶺の生き方に理解はしてくれた。その葛藤がめぐみの苦しみのひとつだったと、当時の赤嶺には感じることはできなかった。

 互いに、相手の心情を理解し、相手の行動を尊重し合わなければという意識は存在していた。しかし、しだいに自分の価値観との隙間が広がり始め、互いの幸福のためにとれる手段は限られてくる。

 赤嶺は、塘路に居住し、このカムイモシリの中で、いつか朽ち果てる日が来るであろうことを極自然に受け入れるようになった。

 毎日、山に籠る生活を続けていると、動物達が、年老いたり、病に倒れたり、または天敵に襲われたりする命のやり取りが日常の出来事になる。一人でその世界に浸かっていると、彼等と自分がどう違うのか、強く考えさせられる。

 確かに、人間は彼等には思いもよらない強力な道具を駆使することができる。彼等が一日中歩き回り、僅かな食料を得る間に、贅沢で十分な食料をいつでも手に入れることができる。しかし、彼等のように、寒さや暑さに耐えうる強靭な肉体や対処法を持ち得ない。睡眠も彼等の何倍も必要としている。どっこいどっこいだ。

 所詮、人間はカムイモシリの中で、それぞれのカムイの庇護の下、日々の生を受けているだけだ。庇護を抜け出し、その立場を越えようとすることは、カムイのもとを去ることであり、その先は、仏教で言うところの煩悩の支配下に身を置くということになるのではないだろうか?

 赤嶺は、この地にたどり着いた時に、すでに確信していた。幼い頃から煩悩という雑念に支配されていた苦しみから、この地に居住し、山に生活の糧を得ることで救われている。向き合う相手は、それぞれのカムイであり、暮らすべき場所は、カムイモシリでしかないということを・・・。

 赤嶺は、山の生活で得た簡素な価値観の中に、敏子という新たな価値が現れたことに戸惑った。六十才を過ぎてエカシに相談する内容でもあるまい。安住になんて言われ、冷やかされるか分からない。難しくも楽しい難題に、赤嶺は顔をほころばせた。 

 山と向き合う内に答えは出る。自分の力で結論を得よう。喜びを感じさせる大いなる課題だ。焦らないことにした。

 敏子は、赤嶺より一回り以上若いが、難しい年ごろの娘さんを楽しく育てている。めぐみとの暮らしから経験していた。娘と仲のいい母親は信頼に足る。めぐみとは価値観を共有できなかったが、それだけだ。めぐみの人間性を批判すべき箇所は見当たらない。むしろ、看護師に誇りを持ち、楽しく子育てをするめぐみを尊敬さえしている。

 さあ、仕事に取り掛かることにしよう。安住の話では、ここに住むヒグマは、この山の二つ向こうの沢沿いに穴を掘っているらしい。風向きは南向きになっている。しばらく、この気圧配置が続くようだ。風上から行動できるうちに仕事を進めよう。カノジョに自分の存在を確認してもらうにはとてもいい条件だ。

 問題は、安住が言っていたように本州からやって来るハンターだ。遠く遠征してくるハンターは、経験年数は豊富なはずだ。ほとんどがライフルを手にしている。鹿を一発で仕留めるのに、ライフルは離れた距離から正確に照準を得ることができる。

 ライフルを手にするには、狩猟の経験年数が必要になる。長年問題を起こさない優良なハンターしか手に入れることができない代物だ。しかし、勇んで乗り込んだハンターは、地元のハンターに比べ意気込みが違う。焦りがあるだろう。しかも、土地勘が当てにならない。林道のあちらこちらに、林業作業中の看板を立てかけてきた。

 赤嶺もハンター歴が二十年になる。この地に来て、真っ先に安住から狩猟の提案をされた。

 毎年、鹿を得るためにライフルを肩に山に入る。愛用のライフルはブローニングBARMKⅢだ。作動の確かな銃として、古くから知られた自動装填ライフルのシリーズだ。安住の提言を受け、散弾銃の頃からブローニングを愛用している。しかし、今日は仕事始めとして、むやみに山には入り込まない。当然、ライフルは持参して来なかった。今日の主な目的は、この山に居住するキムンカムイ(ヒグマ)に入山の許可をもらうため、自分の身分を確認してもらうことだ。小型のチェーンソーを取り出した。

 普段は鉈(なた)で済ませる作業も、音で人間の存在を認識してもらうため、チェーンソーのエンジンの音を聞いてもらいたかった。効率は落ちるが、カノジョに対する思いやりだ。

 赤嶺は、林道脇から仕事を始めた。すると、四駆のピックアップトラックが近付いてきた。この先の林道は、作業中の規制が掛かり、車が進むことができない。案の定、車を止め、銃の準備を始めた。赤嶺は注意しなければならない。

 「すみません。ここから奥の山は作業の現場となっております。狩猟は遠慮してください」

 ハンターは、怪訝な顔をした。無視して山に入ろうとした。赤嶺は強硬に言わなければならなかった。人が作業で入っていることが判明した山での狩猟は禁止されている。マナーの問題ではない。

 「私は地元の猟友会にも所属しています。この山の南斜面は、国立公園に属していますし、その奥も、作業中の告知をしています。出てください。通報しなければならないことになりますよ」

 ハンターは渋々銃を片付け始めた。ひとこと言いたげだ。しかし、悠然と佇む大柄な赤嶺に逆らうことはできない。赤嶺の言うことは、間違っていない。車を乱暴にUターンしながら、声を荒げて言った。

 「お前の山じゃないだろうが!」

 多摩ナンバーの車は、後輪を滑らせながら走り去った。赤嶺は悲しくなった。しかし、山に住むカノジョに危害が及ばない。安堵も同時に感じた。
 
 まず、林道沿いから片付けることにした。所々に雪が残る。鹿も山奥から人里に降りて来るだろう。雪が積もると、餌となる食物が乏しくなる。道路などの法面に張る芝は鹿にとってはご馳走だ。しかも、栄養価が高く、路面に対する凍結防止の塩分という味付けもされている。

 雪が積もると、鹿が人工的に手を加えられた箇所に集う風景がこの界隈の風物詩となる。当然道路には高速で走る車が通る。犠牲となる鹿も増えてくる。文明とカムイモシリの悲しい交差点となるのだ。

 林道沿いの作業は条件が良いため、半日もかからない。昼になり、すぐそばに止めている軽トラの横で昼食を取ることにした。いつものように、具に梅干しの塩おむすびとお茶で一服した。

 ヒグマの臭覚は、犬のそれの数倍も鋭いという。しかも、甘い味覚も持ち合わせている。普段嗅いだことのない魅力的な香りは山の中では禁物だ。山では甘い花の香りが一番のご馳走なのだ。

 いくら条件が良かろうと、無理をせず、計画通りの行動を取る習慣を守ることが大事だ。自分の身体に気を付けなければならない年齢にも差し掛かったし、周りのカムイ達を惑わすことにもなる。

 三十分休憩したあと、山に入り、少し奥に進むことにした。赤嶺は気が付いた。この山も、若木の皮がはがされている。若木のうちに皮がはがされると、ただ、枯れ朽ちるだけだ。

 山が荒れる理由は、人工林の放棄だけではない。冬になり、食料が不足すると、飢えた鹿はかろうじて食することができる柔らかい若木の皮などに目を向ける。

 ふと、木々の間を通して鹿の群れが目に入った。よく見渡すと、あちらこちらに、獣道が網の目のように広がり、鹿の糞も辺り一面に散らばっていた。

 鹿の天敵はヒグマではない。ヒグマは雑食性で、森の植物が豊富だとそちらを好んで食する。冬が近づき植物が少なくなり穴籠りの準備に皮下脂肪を蓄えるため、サケなどの動物性の食事を好むことはあるが、俊敏な鹿を苦労して狩る必要性は低い。それも、山の状況次第ということだが・・・。

 本来、鹿の数を調整していたのは狼だった。しかし、家畜を襲う狼を人間が駆逐して久しい。しかも、家畜のために導入された栄養価の高い牧草を豊富に食べれるとなれば、繁殖の頭数も大幅に増えることになる。森林や農地の害が報じられるほど鹿が増えたのも、自然の摂理に抵抗した人間の驕(おご)りに他ならない。

 今となっては、先程のハンターのような人物に頭数を適正になるまで処理してもらわなければならないのか? 赤嶺は悲しい気持ちで仕事に掛かった。

 チェーンソーのエンジン音は鹿達も驚かしてしまったようだ。エゾモモンガもこの辺に居付いていると安住が言っていた。夜行性のモモンガは、今はゆっくり寝ている時間だが、そこまで遠慮する必要はないだろう。むしろ、森が整備されれば、餌となる木の実が豊富に実るようになる。一方的な理想論の押し付けかもしれないが、しばらく我慢してもらおう。

 三日ほどで南斜面を片付けることができた。日差しの温かな日が続く。予定よりも早いペースだ。しかし、山を越え、北斜面になるとカラマツ林が含まれてくる。

 カラマツはほとんどが人工造林だ。昔、生育の早いカラマツは重宝がられた。しかし、安い輸入材や技術革新で、一時厄介者扱いされ、ここのように、離れ小島になった造林地は手付かずの状態で放置される結果となった。近頃は、加工技術の向上で建材としても注目され、需要が伸びてきているのだが、手が加えられ、親身に育てられたカラマツに限られる。また、バイオ発電の燃料として間伐材の需要も多い。

 今回は、その間伐の目利きも兼ねて作業することになっている。運び出しの前までが赤嶺の仕事とされた。

 まずは雑木林を先に片付けよう。もう一山超えたその雑木林が続く沢沿いの南斜面にカノジョの住処があるはずだ。

 赤嶺は、南から進み、山頂に立ち、北斜面を見渡した。北斜面は、日が当たらず、雪が残っている。目を凝らして、カノジョの気配を探った。この日も、後ろの斜面で仕事としてチェーンソーの音を鳴らしていたため、鹿などの動物の気配は消えていた。当然カノジョも見当たらない。風は、背後から吹く南風が今日も吹いている。匂いで彼女を探ることはできない。目だけが頼りだ。あと二時間、明日の仕事を促す準備で今日の仕事は終わる。

続く(次回更新:10月20日火曜日)

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