カムイモシリ
カムイモシリ 第十四回
和田山 明彦 作(釧路管内標茶町在住)
北海道に住みついて五年目の、ミレニアムの年に、赤嶺が世話になっていた山根造林が解散した。山根は、七十才を迎え、仕事から引退したいと会社を整理することにした。
すべての業務や社員は、釧路市にある釧路林業に移管することになった。業務内容は広がったが、山根造林に所属していた者達は、基本的に今までの業務を引き継ぐことからの再出発となった。
赤嶺は、白糠から、今度は、釧路に通うことになる。半分の通勤距離になり、赤嶺にとっては都合が良かったということか? 山根からは、山における大事な掟を事細かに教わった。家族的な雰囲気の中、山根造林での経験は、赤嶺がこの地で生き抜く自信につながった。
山根造林での最後の仕事が、塘路において、安住の山を管理することだった。安住は、事あるごとに赤嶺を誘い、山や湿原、そして、塘路湖の話を聞かせてくれた。その安住の山が山根造林での最後の仕事となった。ログハウスの地主であった安住は、山根造林との付き合いは長い。最後に是非ということで山根に依頼してきた。もちろん、作業員は赤嶺を指名してきた。
山根は、赤嶺に自分の庭のようにしていた山の手入れをさせることで、感謝の気持ちを表したかったのかもしれない。
赤嶺は、安住とは土地の売買の付き合いだけではなく、塘路に住むエカシ(長老)として尊敬する人物になっていた。夏には、子供達が夏休みを利用して来る機会に、いつも安住夫婦を招待してバーベキューパーティーを催していた。
安住は二年前に郵便局を退職して、赤嶺のログハウスの隣の草地で馬を飼い、のんびりと悠々自適の生活を送っていた。安住にも子供達はいる。しかし、夏に帰ってくるのはお盆の時期だけだ。お盆前に赤嶺の家族が一足先に来ることで、今では、年中行事のように楽しみに足を運んでくれる。
今年も、子供達が夏休みに入るとすぐに東京からやって来た。真夏日の続く東京では、外で活動すること自体苦痛を伴う。ここでは、真夏日になっても、空気は爽やかで、なにより、日が暮れると涼しさが辺りを支配する。窓を開け放てば、クーラーなど必要としない。ログハウスの近所には隣接する建物もないので、カーテンさえする必要も無いのだ。
安住はこの地に長く続くアイヌの末裔だ。バーベキューを用意する間、いつも、アイヌ民話を絡めて塘路の自然を解説してくれる。子供達に話すのが嬉しくて仕方がないようだ。めぐみが安住に聞いた。
「安住さんのお子様にも、こうやって先祖と自然の話を聞かせてあげたのですか?」
妻の節子が答えた。
「なんも、お父さんの話は長いから、いつの間にか逃げてしまうのよ。こうして、興味をもって聞いてくれる機会なんて、学校などから依頼される講演以外は滅多に無いのよ」
興味を持っているのは子供達だけではない。赤嶺も、炭を起こし、皿を用意しながら、安住の話に耳を傾けていた。
昔、塘路が栄えていた時の話が始まった。塘路湖には、ペカンベ(菱の実)が豊富に実る。題材をそこに置き、話し始めた。
「昔なぁ、この湖のほとりの村は、長雨で食料の備蓄が無くなり、たいそうな飢饉に見舞われそうになってしまったぁ。しかし、その時になぁ・・・」
昔、塘路のアイヌは、ペカンベの収穫で、物々交換による他の地域からの物資が豊富に集まり、この界隈では恵まれた集落を形成していたようだ。
去年の夏には、釧路湿原がまだ海だったころ、釧路のアイヌや達古武(たっこぶ)地区のアイヌ達と協力して、クジラの漁をおこなったという話もしていた。
「手が止まってるわよ!」
めぐみの声で我に返った。苦笑いをしながら、準備に精を出した。バーベキューパーティーでは、安住も賑やかに酒を飲んでいる。今日は隣の庄司も来る予定で、それまで、酒の量をセーブしてくれればいいのだが・・・。赤嶺は元々下戸のため、そして、節子は帰りの車を運転するため、今のところ、安住とめぐみが酒を飲んでいる。次第に会話が弾んできたが、これで庄司が来たらどうなるのだろう?・・・ いつも、赤嶺は、安住とアイヌ民族の世界観について話しをするのが楽しみだった。しかし、今日は事情が許さない。
アイヌ民族は、古来より、狩猟採集が生活の基本だ。現代においても、狩猟採集で生活している部族などは、世界中に散在しているが、彼等は、人間が持ち得ない能力を有する動物や、自然現象に対して、精霊や神が宿り、また、神の仕業などと畏敬の念を抱いている。
ここ、北海道でも、ヒグマの力、丹頂鶴の優雅さ、フクロウの暗闇での飛行、または、火の力、稲妻の脅威等々、数限りなく畏敬の対象となる生き物や現象がカムイとして敬われている。
赤嶺は、素直にその世界観を受け入れることができた。なぜなら、山に生活の糧を求めていると、彼等の能力を理解し、四季の移ろいに身を委ねることで、自分自身が周りの世界と一体感を得る境地に達することができる。すると、生活の場である山の中に、自分の存在が抵抗とならないですむ心境になり、とても心地いい感覚になるのだ。
社会生活の場において、自分の存在を意識させなければならないことは、非常にストレスを伴う。赤嶺は、塘路に来るまで、常にそのストレスと対峙していたことに気付かされていた。優越感と劣等感の狭間で蠢(うごめ)いていただけだったのだ。
ヒグマの行動と能力を理解することで、ヒグマとの共存を可能にする。フクロウの闇の中での捕食行動を理解すれば、彼等と、どのように山の中で仲良くできるかを知ることができる。鹿やキタキツネのこの地での生き様を知ることで、人間が、どうすればこの原野において生きていけるかのヒントを得ることができる。
火の存在に、カムイの現象と敬うことで、火の扱いに自然と意識を向けられ、安易な扱いによる火災の予防につながる。天候の異変についても、科学的な天気予報に頼るより、この地に育まれた生き物や、木々の表情を観察することで、より正確な天候の状況を予測することができる。
カムイと崇(あが)める者達と共存できるということは、自らもカムイモシリの住人と認められることであり、己の魂の拠り所をこのカムイモシリに得ることでもある。
人間は、カムイ達の能力を持ち得ないが、彼等には無い知識の備蓄により、能力や道具を創作することができる。しかし、安住は、その道具すらカムイが宿るという。
道具を粗末にしてはいけない。その貴重な道具にも、生物や自然現象のカムイより、格下ではあるが、カムイが宿る。
安住は、機械や道具は故障などで形を失えば、人間の立場はカムイモシリの最下層の立場に甘んじなければならなくなるという。生身の人間は、所詮、カムイモシリにおいては、一番謙虚にならなければならない存在なのだ。
庄司が牛乳豆腐を手にやって来た。牛乳豆腐は、出産した乳牛が、出荷できるようになる前の初乳がなければ上手にできない。カッテージチーズのような物だが、赤嶺は、ワサビ醤油で食べるのが定番だ。
「おうっ、皆さんお揃いですね!」
赤嶺の子供達は、庄司が大好きだ。
「庄司のおじさん! 明日遊びに行っていい?」
安住の話は終了ということだ。これからは、庄司が会話の中心となる。しかし、庄司は、若い子達の話題も豊富に取り揃えている。というか、若い世代との会話の中で、すぐに、知識を収集するのが特技のようだ。
皆の笑い声がその場を支配するようになった。赤嶺は、話について行けなくなった。バーベキューの調理に精を出すことにした。
東京のマンションは、今年、売り払い、めぐみの通勤と、子供達の通学に便利な地域に、新たに買い替えていた。バブルが弾けた後で、相当悩んだが、前のマンションの立地条件が功を奏した。高値で売れ、新しいマンションも、高級ではあるが、新たにローンを組むことなく手に入れることができた。
そのマンションは、プログラムの仕事を契約している矢野光男が進めてくれた物件だが、赤嶺が塘路に移住したことにより、広くなりすぎた部屋数を整理したいというめぐみの要望でもあった。
夕方、パーティーをお開きにした後、台所で後片付けの手伝いをしていると、めぐみが話しかけてきた。めぐみにしてみれば、東京での近況を報告しているだけなのだが、赤嶺には、遠い世界の、見ず知らずの生活状況を聞かされているような感覚だった。
「お隣になった石井さんだけど、あなたが勤めていた会社のライバル会社の役員ですって・・・。上の階の上原さんは弁護士なのよ。法人関係が得意みたい。俳優さんも住んでいるのよ」
赤嶺にとっては意味のない異次元の話だ。皆同じ人間だろうとは言えない。
「うちは、看護師と仙人の夫婦ということか?」
赤嶺は冗談のつもりで言ったが、めぐみはムッとした顔つきで答えた。
「田舎で、フリーのプログラマーをしていると言っているわ。矢野さんも同じマンションでしょ? ちゃんと証明できてるわよ」
そうだった。あのマンションも高給取りの巣窟だった。めぐみはセレブには興味がない。看護師という職業柄、時間が不規則で掃除が大変と、家財道具は最小限にしている。食事も自炊が中心で、高校に通う長女のため、お弁当もこまめに用意していた。今の赤嶺の目から見ても、けっして贅沢な生活をしていない。服装も量販店で買い、バッグなども実用的な安物で満足している。
めぐみの飾らない性格や、職業柄のせいかマンション内でも打ち解けた関係を保っているようだ。子供達ものびのびとした日常を送れている。ただ、近所の家庭のことには興味がない。矢野も、仕事の付き合いとして会社経営の手腕に関しては尊敬しているが、やはり、別世界の人間だ。プライベートに関しては、お近付きになる気はサラサラ無い。
めぐみは次第に近所の話を封印してきた。バブル後の東京の街並みが変化していることの話題に移った。確かに、赤嶺が居た頃に比べても、公共施設や、高層ビルだけではなく、街並みそのものも変化が顕著だ。しかし、東京を捨てた赤嶺には、東京そのものが、理解できない世界になっていた。
めぐみは、総合病院で内科の看護師を仕切る立場になっていた。赤嶺は仕事の話に話題を変えた。
「病院の方はどうだい? 責任のある立場になって大変じゃないかい?」
めぐみは、仕事内容からは離れたかった。実務より、看護師の管理業務に仕事が移り、当初の情熱が薄れてくる感覚に見舞われていた。しかし、管理業務は必要であり、めぐみの実績が必要とされる業務であることも間違いない。
「患者さんと接触する機会が減って、モチベーションを保つのが大変」
「でも、円滑な職場環境には必要な仕事だよ。割り切らなきゃ」
めぐみは十分に承知していた。若い看護婦を宥(なだ)めたり、叱責したり、ミスを犯さぬ環境の構築こそ、めぐみの仕事になっていることを。
返事のしようのない指摘に黙っている姿も、赤嶺には理解できた。これ以上の指摘は釈迦に説法ということだ。子供達の話を聞いた。長女は、進学を考えなければならない学年を迎える。次女は高校に進学だ。
「子供達から進路の相談をしてこないけれど、何か聞いているの?」
「看護学校よ」
話は終わった。
子供達の楽し気な声は、赤嶺の気持ちを和ましてくれた。山の仕事と、プログラミングの仕事をこなす毎日は、ある意味、緊張の連続だ。心地よい緊張感だったが、年に一度はこの和を感じるのもいいもんだ。しかし、めぐみとの会話は途切れがちだ。赤嶺は自分の価値観をめぐみに押し付けるつもりは無い。自分の価値観は、この塘路において育まれた物だ。都会に生活拠点を持つめぐみ達には到底理解できない世界であることを認識していた。
東京にも隠れた自然が残っている。通勤途中、都会の片隅に、小さな自然を見つけることがあり、幼い頃、慣れ親しんだ自然との触れ合いを思い出すことも珍しくはない。しかし、都会の主人公は人間だ。明らかに、人間と自然の生物とは格差が存在し、頂点に立つ人間が、彼等の運命の行方を握っている。そこには、自然の法則は存在しない。あるのは、人間の驕(おご)りによる支配の論理だ。
翌日、子供達は庄司の牧場に招待され、子牛や、趣味で買っている羊たちと楽しい時間を過ごすことができた。
赤嶺は、家族が来る時は、仕事をできるだけ休むようにしていたが、めぐみと二人きりでログハウスに残されても、自分の立ち位置が気まずくなる雰囲気が漂ってくる。子供達は、お昼ご飯を庄司が世話をさせてくれと申し出てくれたので、赤嶺はログハウスにめぐみを残し、山に出掛けることにした。
「めぐみ、俺は、少し、山の現場を見てこなければならないから、ここで、少しのんびりしていてくれ」
めぐみには願ったり叶ったりの待遇だ。何も考えず体を休めることができる。
「ええ、いいわよ。のんびりしてる」
赤嶺は、軽トラに荷物を積み、ある意味、息苦しさを感じた家を後にした。山の清々しい空気を求めて現場に向かった。どこか、逃げ出すようで、多少の罪悪感を伴った。
続く(次回更新:12月8日火曜日)
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