テツ男社長のたわごと

根室本線・新富士駅の思い出(その2)

 私は釧路新聞社に入社する前の1978(昭和53)年秋から1983(同58)年春まで、国鉄職員として新富士駅に勤務していました。釧路市立博物館では記念ミニ写真展「新富士駅開業100年」(https://www.city.kushiro.lg.jp/museum/tenji/kikaku/2023/shinfujista.html)を開催しておりますので、新富士駅の思い出を前回に続きまして振り返ります。

 今回も文章が中心で、また、今から40年も前のことなので記憶違いがあるかもしれませんが、ご容赦ください。なお、新富士駅の1980(昭和55)年ころの構内配線図は、前回の〝その1〟に掲載しておりますのでご参照ください。

新富士駅(1974年9月)

 

 新富士駅は旅客よりも貨物取扱が多く、貨車の入換を行う構内係として勤務していました。勤務時間は9時(9時30分だったかも)から24時間です。主な貨物は、十條製紙釧路工場(当時)からの紙製品、釧路西港の石油タンクからの石油類です。

 最も扱う貨車が多かったのは西港からの石油類を入れたタンク車でした。午前1回と午後2回、釧路開発埠頭が運んできたタンク車が、新富士駅9番線に据えられます。その両数は20両ほど。それを釧路操車場(今はありません)からやってきたディ―ゼル機関車DE10で入換をします。

新富士駅に来ていたタンク車(タム500形式 1980年6月)

 

 9番線に取りついたDE10はタンク車と緩急車を従え大楽毛方へ本線を引き上げます。タンク車の車票には、「美幌」「札内」などの行先のほか、列車番号も書かれています。引き上げた20両あまりのタンク車は、行先がバラバラですので、それを列車別に揃えるのが新富士駅の役割です。

 新富士駅の場合、列車別に1~4番線、留置線の4線に振り分けます。例えば、帯広行のタンク車専用の5270レは3番線、同じく5272レは2番線、中斜里、北見方面は4番線・・・てな具合です。

新富士駅に来ていたタンク車(タキ1000形式 1980年6月)

 

 入換現場には助役さん、陣頭指揮を執る操車係、突放や連結作業を行う構内係が4人、そのほか分岐器を扱う転轍係が西方と東方に各1人が配置につきます。構内係の4人は役割に従いA連、B連、C連、D連に分かれます。A連は主に突放作業の際、車両と車両の間に入ってブレーキホースを切り連結器のピンを上げて解放の準備をします。B~D連は、突放されたタンク車に乗って手回しブレーキを扱い、所定の位置に停車させたり、同じ列車番号のタンク車に連結したりします。操車係は、配車係から渡されるメモ(そろえる列車名と両数が記載)と引き上げたタンク車の車票を見ながら、いかに効率よく作業ができるのかを判断しながら入換作業を段取りします。効率よくというのは、突放の回数を減らすなど作業手順をできるだけ少なくすることです。新富士駅の場合には、本線を利用して入換をしていましたので、本線列車が優先なので、そんなに長くは入換のため本線を占有できません。

新富士駅に来ていたタンク車(タキ1700形式 1980年6月)

 

 大楽毛方に引き上げられると、釧路方のタンク車から列車別に突放します。操車係が、西方の転轍係に向けて、番線の指示をします。当時は無線がなく、合図は〝手〟でした。例えば、1番線は旗を大きく上下に振ります。2番線は旗を横に振ります。決まった形がそれぞれの番線にありました。

 突放される番線の進路がとられると、B~D連のいずれか一人が突放されるタンク車に乗り、手回しブレーキの状態を確認します。A連はタンク車とタンク車の連結部に入り、両方のブレーキホースのコックを閉めます。そしてブレーキホースとブレーキホースをつなぐ鉄製の継ぎ手を手で持ち上げると、「ポン!」という大きな音とともにブレーキホースがはずれます。次に連結器横にある〝解放てこ〟を持ち上げ連結器の〝錠〟をあげます。こうするとタンク車とタンク車を切り離すことができます。

新富士駅に来ていたタンク車(タキ2100形式 1980年6月)

 

 A連が合図を送ると操車係は赤と青の旗を頭の上で数回交差させます。これが突放する合図です。続けて操車係が勢いよく緑の旗を振るとDE10がうなりを上げて加速します。ある程度の速度が出ると操車係は赤の旗を出します。するとDE10と突放されたタンク車以外は停車します。突放されたタンク車は、構内係を乗せて惰性で目的の番線へと走って行きます。続いて操車係は、転轍係に次の番線を指示します。A連は再びタンク車とタンク車の間に入り、突放の準備をします。この作業を繰り返します。

 本来、B~D連は突放される前にタンク車に乗り、他の貨車と連結するまで乗っているのが基本です。ところが慣れてくると、突放される前に乗るのではなく、突放されてきたタンク車を途中で待ち受けて飛び乗り、手回しブレーキを操作してある程度の速度に落とし、タンク車から飛び降ります。タンク車は適度なスピードを保ち、その先にあるタンク車と絶妙な速度で連結します。

※錠=連結器に付いているストッパーのようなもの。これがあがっていると、連結器がはずれて車両の切り離しができます。連結する時には、連結する車両の片方は必ず錠をあげておかなければいけません。連結すると錠が落ちて連結部分がはずれないようになります。

新富士駅に来ていたタンク車(タキ3000形式 1980年6月)

 

 石油類を積んだタンク車は、タンクの中で石油類が波打つように動きますので、突放されるとタンク内の〝チャポンチャポン〟という音に合わせるように車両が前後に少し揺れます。その揺れも計算してブレーキ操作をします。

 しかし、天候の加減などで連結相手のタンク車手前で停車してしまい、連結ができないこともありました。それほどの距離ではない場合は、次に突放される貨車に〝玉突き〟をしてもらいます。それでも連結できないときにはDE10に〝お出まし〟をお願いするのですが、余計な一手間をかけますので、心苦しい思いでした。

 手回しブレーキはタンク車毎に〝個性〟があります。すごい力を入れてハンドルを回さないとブレーキの効きが甘いタンク車もありました。タキ3000や3軸のタキ50000はおおむね大丈夫でしたが、タキ9900やタキ17000は、当たりが悪いと、あまり効かないこともありました。それと新富士駅には留置線という行き止まりの線もありました。たしかタンク車4両分しか入らないところで、ここに突放されると、車止めを突破しないか緊張しました。

新富士駅に来ていたタンク車(タキ9900形式 1980年6月)

 

 タンク車の入換が終了すると、最後に緩急車を4番線に突放します。ほとんどの場合、貨車と車掌室が合体したワフ形式でした。ワフはタンク車に比べて軽いこともあり、突放されるとブレーキ操作も容易で、まるで自分で運転しているような錯覚に陥ります。余裕があると〝ガシャン〟と連結させるのではなく、停車させるのと同時には連結器の錠が〝カシャ〟と下りる〝神業〟をやろうとしていました。だいたいは成功していたのですが、錠が下りる前に停車したこともありました。しかしそうした場合、DE10の手助けを借りなくても、ワフは軽いので数人で押せば動きました。

 新富士駅には先が平べったくなった鉄製の長いポールがありました。これを線路と車輪の間に入れてポールを上下すると車両が動きます。テコの原理です。ワフやワムはこれでいけましたが、タンク車、特に石油類が入ったものは、こんなポールではびくともしませんでした。入替作業が終了するとDE10が釧路方に回り、釧網、石北本線方面へのタンク車をけん引して〝小運転〟列車として釧路操車場へ戻っていきます。

新富士駅に来ていたタンク車(タキ11000形式 1980年6月)

 

 釧網、石北本線方面へは、小運転で釧路操車場まで運んでくれ、その先は釧路操車場の入換班が組成してくれるのですが、十勝方面へのタンク車はどのように運ぶのでしょうか?日中に組成を完了した十勝方面へのタンク車は、新富士駅の1~3番線で待機します。両数は10両前後で、それを深夜に運びます。列車名は5270レ(新富士着1:56 新富士発2:08=1980年1月1日ダイヤ)、5272レ(新富士着2:46 新富士発2:58=同)の2本です。タンク車は最高速度が低かったので、夜中だったのでしょうね。そのほか秋冬繁忙期には、早朝に臨時のタンク車専用列車も設定されていました。

 5720レで入換をご説明します。1時50分(同)に釧路操車場を出てきます。けん引機はDD51で緩急車のヨ8000だけを従えて新富士駅6番線に到着します。停車時間は12分です。すぐにDD51とヨ8000は、構内係の手でブレーキホースが切られ連結器も解放します。西方の転轍係が駅内の信号係と本線引き上げの準備をして、進路がとれると操車係に小型合図灯で知らせます。操車係は機関士と打ち合わせをしたのち、小型合図灯を使いDD51に添乗して大楽毛方に引き上げます。

新富士駅に来ていたタンク車(タキ17000形式 1980年6月)

 

 転轍係が信号係に連絡して、5720レの組成がある番線(1~3番線のいずれか)に進路をとります。操車係は組成のある番線までDD51を誘導します。そこには別の構内係が待機して、タンク車の連結器やブレーキホースなどをチェックします。DD51とタンク車の連結が完了するとブレーキホースをつなぎ、DD51はタンク車を従え操車係の誘導で再び大楽毛方に引き上げ、今度はヨ8000の待つ6番線に進路をとります。

 さきほどはDD51が単機でタンク車に連結をしますので、機関士から連結するタンク車も確認できますし、ブレーキも単弁(機関車だけのブレーキ)なので反応が早いです。しかし、今度はタンク車を10両ほど持ち、後退して〝軽い〟ヨ8000と連結させなければいけません。操車係は機関士の見える場所で合図灯を振ります。ヨ8000には構内係がいて、バックしてくるタンク車とヨ8000との距離を測りながら合図灯を振ります。

新富士駅に来ていたタンク車(タキ55000形式 1980年6月)

 

 距離がある場合は、強く振ります。だんだんタンク車が迫ってくると、振り幅を小さくします。するとタンク車はスピードを緩めます。2~3㍍くらいになると構内係は一度、合図灯を大きく上げます。「もうすぐですよ」という意味です。そこからは小刻みに合図灯を動かし「最徐行で来てください」と伝えます。連結直前で合図灯を赤にします。するとヨ8000と連結し、5270レのできあがりです。機関士、操車係、構内係の〝あうんの呼吸〟による作業が必要です。

 〝あうんの呼吸〟が乱れると、ヨ8000とタンク車は〝それなり〟の速度で連結し、緩急車に乗っていた列車掛を連結の衝撃で驚かすことになります。タンク車とヨ8000との連結は、ほとんどの機関士さんはDD51の単弁だけでした。まれに勢いよくバックしてきて、構内係があわてて合図灯を赤にすると、危険を察知した機関士さんは、単弁でなく全てのタンク車にブレーキをかけて停車させ、一度ブレーキを緩めて、再度連結作業を行います。

キハ40の甲種回送が新富士駅に。右のDE10とワフは新富士駅入換用の〝小運転〟(1979年9月)

 

 連結が終わるとブレーキホースをつなぎ、テストを行います。構内係が合図灯をぐるぐる回すとブレーキがかかります。車輪に制輪止が当たり全車両から「カチカチカチ」という音が聞こえてきます。念のため、ヨ8000の制輪止を足で押しますがびくともしません。ブレーキがかかっている証拠です。今度は合図灯で「ブレーキを緩めて」合図を送ります。空気が込められる「シュー」という音がしてブレーキが緩みます。ヨ8000の制輪止を足で動かすとぶらぶらしています。DD51から汽笛が鳴らされ制動試験を終了します。あとは発車を待つばかりです。

 逆に十勝方面から中身が空になったタンク車の入換作業もあります。5275レ(1時16分新富士着 1時28分新富士発=同)のケースをご紹介します。新富士駅5番線にDD51に引かれて10両前後のタンク車が到着します。到着後、構内係は最後尾のヨ8000とその前のタンク車の間のブレーキホースを切り連結器横の〝解放てこ〟をあげ、切り離しの準備をします。操車係に作業完了合図をした後、タンク車に乗ります。DD51とタンク車は釧路方に引き上げ、進路を7番線もしくは8番線にとります。その間、DD51に添乗していた別の構内係は、DD51とタンク車の間のブレーキホースを切ります。

キハ183系の試作車が試運転で新富士駅に(1979年10月)

 

 東方の転轍係からの進路OK合図を受けた操車係は、合図灯で突放を機関士に知らせ、今度は合図灯を青色にします。するとDD51は動き出し、構内係が連結器横の〝解放てこ〟を上に持ち上げます。ある程度の速度で操車係が合図灯を赤色にすると、切り離されたタンク車は惰性で7番線もしくは8番線へ向かいます。タンク車に乗っている構内係が手回しブレーキを操作して所定の位置に止めます。突放ではなく、DD51が7番線もしくは8番線に押し込むこともありました。DD51は再度釧路方へ引き上げ、進路を5番線に戻し、ヨ8000と連結します。

 十條製紙釧路工場(当時)にワム80000や薬品が入ったタンク車を運ぶことがあります。新富士駅の東方から同釧路工場へ入る岐線がありました。ほとんどは貨車をDE10の前に連結をする推進運転です。構内から左カーブが続くので、見通しはよくありません。そのため先頭の貨車には構内係がステップに乗って操車係に合図をし、それを見ながら操車係はDE10のデッキから機関士に合図を送ります。

釧路鉄道管理局長から新富士駅への表彰状

 同釧路工場へ向かう途中、新富士駅前の道路と岐線が交差する場所には踏切がありました。記憶が間違っていなければ、新富士駅から同釧路工場へ入る際には自動でしたが、同釧路工場から新富士駅に戻る際には、踏切手前で一旦停止してボタンを押すと踏切が閉まる仕組みでした。多分、同釧路工場内での入換の際、踏切ギリギリまで使うので、その都度踏切が鳴っていては交通の妨げになったからでしょう。

 新富士駅から同釧路工場へ向かう際、構内係はワム80000のステップに乗り、片手は手するにつかまり、もう片方の手で合図を送ります。それほど長い時間ではありませんが、片手で体を支えなければいかず、手が疲れつらいものがありました。同釧路工場に入り、貨車をその場に置くと、今度は製品が入ったワム80000をけん引して新富士駅に戻ります。同釧路工場へ行くのは早朝の時間帯が多かったようです。

422レへの手小荷物の積み込み(1982年11月)

 

 構内係を何年か経験すると転轍も担うようになります。私もほんの数ヶ月、転轍係をしましたが、すぐに他の部署へ異動しました。貨車の入換作業は、よい思い出と経験でしたが、今から思えば、危険と隣り合わせの場面もありました。ほかの部署に異動してからも、突放された貨車に飛び乗ろうとしても追いつかない夢を見たこともありました。

 今、鉄道による物流が見直されていますが、今後もその傾向が続けばよいと思います。長い文章にお付き合いいただき、ありがとうございました。

 

※次回は2月19日ころ更新予定です。


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